「自閉症」であること、
“ふつう”であること。
− 自閉症児のノーマライゼーションを考える −
自閉症の子どもに、『普通の行動を取る』ことを強制すると、結果的に『まっとうな大人』になることを妨害することになる。逆に、『自閉症者らしく行動する』ことが、『まっとうな大人』になる近道である。
2002/08/22作成
「自閉症」であること、“ふつう”であること。
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目次
○「自閉症」が増えている
「自閉症」と診断される子どもが、増えてきています。
一九八十年代以前には、「自閉症」は「二千人に一人」とか「千人に一人」とかいった割合で発生する、比較的珍しい病気であると云われていました。ところが一九九十年代には「自閉症スペクトラム」と診断される子どもは「五百人に一人」程度存在すると云われるようになり、今世紀に入ってからは「百人に一人」という数字が定着しつつあります。
とはいえ、「そういえば、最近『自閉症』の子供をよく見かけるようになった」とかいった話はあまり(というか、まったく)聞かないのね。あるいは、日本のどこかに「自閉症」の子どもが集まって生活している施設があって(あってもいい気がする)、そこに収容される子どもが増えている、という話も聞かなかったりするわけです。つまり、以前は「自閉症」と診断されなかった子どもが、今では「広い意味での『自閉症』」(すなわち「自閉症スペクトラム」)と診断されるようになった、ということなわけです。
じゃあ、なぜ「自閉症」というものに対する考え方が、変わってきたのか。
○「自閉症」観はこう変わってきた
「以前は単に『精神薄弱児(現在でいう「知的障害児」)』と類別されていた子どもの中に、精神分裂症(スキゾフレニア。現在でいう「統合失調症」)によく似た症状を見せる一群の子どもがいる」。二十世紀の前半、第二次世界大戦中に、アメリカのレオ・カナーとオーストリアのハンス・アスペルガーという二人の研究者が、独立にそう報告しました。以来、この一群の子どもが持っている“障害”を、精神分裂症と共通して見られる「精神的な孤立」という特徴から、「自閉症(autism)」と呼ぶようになりました。
それ以後、半世紀以上の研究の結果、「『自閉症』の症状がありながら、必ずしも知能が低いといえない子ども」が少なからずいる、というのが分かり、同時に「広い意味での『自閉症』と見なしたほうが適切な子ども」が当初予想されたよりもずっと多い、ということがわかりました。同時に「『自閉症』の中心症状と考えられていた『自閉』(=精神的な孤立)というものは、むしろ『人間関係を直感的に把握することができない』という“関係性”の認知障害と捉えたほうがよい」とか、「『自閉』というものも、『中心症状』というよりはむしろ『派生的な症状』であって、それよりももっと深い部分に、何か本質的な“違い”というものが存在する」といったことが、わかってきました。
そんなわけで、「従来『自閉症』と呼ばれていたものと、ひとくくりにして考えたほうがいいと思われるものすべて」を「自閉症スペクトラム」とひとまとめにして呼ぶことが、行なわれるようになったわけです。
現在、「知的障害」は「自閉症スペクトラム」の診断規準には入れられていません。「自閉症スペクトラム」と診断される子どものうち、「知的障害」と見なされる子どもの比率は約二割でしかなく、残りの約八割は、「知能は正常」あるいは「知能的には優秀」とされる子どもたちだったりします†。
そんなわけで、いわゆる「自閉症」(=「自閉症スペクトラム」。すなわち自閉症・高機能自閉症・アスペルガー症候群・高機能広汎性発達障害といったもの)は、現在ではべつに「珍しい病気」ではなくなっていますし、必ずしも「知的な障害」を意味するものではなかったりします。
さらに最近では、「自閉症」を「障害」と考えるありかたにも、疑問が持たれていたりします。
† ローナ・ウィング著『自閉症スペクトル』(東京書籍)によれば、「知的障害を伴う自閉症スペクトラム障害の有病率」が約0.2%、「障害」とはみなされない「自閉症スペクトラム」とみなすことができる例が約1%となっています。したがって、単純計算で約二割、ということになります。
おおまかな推計によれば、平成十二年五月現在、義務教育年齢の児童生徒のうち、全国で約二万人(一学年あたり約二千四百人)の自閉症スペクトラムの児童生徒が特殊教育の場(養護学校と特殊学級)で教育を受けているといわれており、これを百分率でいうとおおむね0.19%となります。これは上に挙げたイギリスにおけるウィングの推定値とほぼ一致し、この数値を我が国における「知的障害を伴う自閉症スペクトラムの有病率」の推定値としてもおおむね妥当だと考えられます。
現在、日本国内で「自閉症スペクトラム障害」の有病率は「二百人に一人(約0.5%)」とされています。すなわち、「はっきり“障害”とみなされる自閉症スペクトラム障害児童に限った場合でも、知的障害がみられるケースは半数に満たない(約四割)である」と言うことができます。さらに、「障害」とはみなされない「自閉症スペクトラム」まで範囲を広げた場合、1%以上存在すると云われるので(ウィングの値とほぼ一致)、これをベースとすると「自閉症スペクトラムに属するとみなされる児童のうち、知的障害がみられるケースは二割以下である」ということになります。
○「自閉症」は必ずしも“障害”ではない
「自閉症」は先天的な脳の機能障害であり、育て方が悪いから「自閉症」になるわけではない、と云われています。同時に、「『自閉症』は、医学的に“治る”ということのない病気だ」とされています。
ここから、多くの医師や教育者は「『自閉症』の子どもは、育て方によって健常児に近づけることはできても、決して本当の意味での『健常児』にはならない」と考えながらも、一方で、「自閉症の子ども」にはなるべく適切な訓練を施して、「健常児」「健常者」に近付ける努力をするべきだ、と主張しています。で、おそらくは多くの保護者や「自閉症」者自身もその主張を受入れていると思います。
ですが、よく考えてみると、「『健常者』であること」と、「社会にうまく適応していること」は別のことです。同時に、「社会に有利に適応していること」と、「社会において望ましい役割を果たしていること」は、別の次元の問題です。
自閉者(「じへいしゃ」ではありません。「ジヘイモノ」と読んでください)の中には、自分自身の「自閉」性を武器にして、社会の第一線で活躍している人がけっこういたりします。
日本語の文法にかかわる仕事、たとえばコンピュータによる日本語情報の処理とか、説明書・マニュアルの執筆とか、産業翻訳とかいった分野は、あたしたちの得意分野といっていいでしょう。「ことばの意味」という、「普通の人」にとっては「あまりにも当たり前でありすぎて、手に負えないもの」「自明すぎて、説明不能なもの」が、あたしたちにとっては決して当たり前でもなく、自明なものでもありません。だからこそ、「道具としてのコトバ」を駆使することができたりするわけです。
「自閉症」の外的な症状というのは、「融通が利かない」「気が利かない」「頑固」「思いやりに欠ける」「神経質」といった形で表現されますが、視点を変えれば「真面目」「律儀」「誠実」「謹厳実直」「木訥」ということでもあるわけです。「こだわり」に至っては、しばしば「望ましいこと」と考えられもするわけです。
「自閉症」は治りません。ですから、どう頑張っても「自閉っぽさ」を消すことはできないんです。だったら、「自閉っぽさ」を「望ましい特性」に転化してゆくのが、適切なアプローチなんじゃないでしょうか。
で、多くの「自閉症」の人間は、それに成功していたりもするわけです。
じつのところ、「自閉症」の人間を「自閉症」と判断できるのは、ごくごく一部の専門家か、同じ自閉者くらいのもので、それ以外の人には「ちょっと変わった人」くらいにしか見えない場合が珍しくなく、それもかなり親しくつきあった上でないと気がつかなかったりする程度のものなんですよ。逆にいえば、世間で「普通の人」と見なされている人の中には、けっこうな数(百人に一人くらい)の「自閉症」の人間が、気付かれることなく生活している、ということなわけです。周囲の人はその人が「自閉症」だなんてまったく思っていなくて、「ちょっと変わった人」「癖のある人」くらいに思っている。
自閉者同士では、発達歴の分析や知能・運動能力テストや各種の脳機能検査に頼らなくても、「あのひと自閉だよね?」「ほぼ間違いなく自閉でしょうねぇ」と分かってしまいます。だから、あたしたちには少なからぬ数の「隠れ“自閉症”者」がそれぞれの居場所を見つけて「普通の人間」の顔をして生活しているのがわかります。で、「自閉症」の人間にとって、居心地のいい場所というのは、だいたい決まっているのですよ。少なくとも、コンピュータのプログラマーには珍しくなく、ある特定の分野(自動販売機の制禦プログラムの開発とか)で特に優秀なプログラマに至っては、ほぼ全員が自閉者である、というのは、自閉者の間ではほぼ定説になっています。
○「自閉症」と診断されることの意味
幼児期にははっきり「自閉症スペクトラム」の特徴を持っていて、実際に「自閉症スペクトラム」と診断された子どもが、「普通の大人」に育つことは、べつに珍しくなかったりします。けれど、その育ちかたにはけっこう違いがあるのですね。「普通の大人」として社会生活を営みながら、「自閉っぽさ」をそのまま持ちつづけ、あるいはその「自閉っぽさ」を仕事や日常生活の中で活かし、個性として認めさせちゃっている人がいます。その一方で、「普通の大人」でありつづけようとすることで、「自閉症」の“自覚症状”に悩まされ、苦しめられている人がいたりするわけです。
この「自閉症」の“自覚症状”については、いままで医学的にはあまり深刻に捉えられたことがありませんでした。なぜかというと、その“自覚症状”は「『家族や周囲の人と感覚・感情を共有できない』というはっきりした違和感」「息苦しいような生きにくさ」といった「とらえどころのない」ものであり、明確な「症状」と呼べるものではないからです。ですから、それを医師に訴えたとしても、それは「しかたのないこと」「受け入れるべきこと」「我慢しなければいけないこと」とされることがほとんどでした。
すでに述べたように、「自閉症」という“病名”は、かつては「知的障害」を意味しました。しかも、「先天性の脳の機能障害」であって、「一生治癒することのない病気」でもあります。
そんなわけで、医師にも「自閉症」という“病名”を家族に告知するのにためらいがあります。親御さんにしたって、「自閉症」という“病名”を受けいれたくない気持がある。あるいは、「自閉症スペクトル」と診断されたことを、本人に告知しないこともある。
で、本人はなんとか「普通の子ども」に育ち、医師や保護者も「ああ、この子は『自閉症』ではなかったのだ」と安心したとします。でも、「自閉症」は本人の中に変わらずに存在し、その“自覚症状”は本人を苦しめつづけます。
これ、本人にとってはけっこう苦しいですよ? 本人にしてみれば、「私はどこか普通の人間とは違うのではないだろうか」「この息苦しいような“生きにくさ”はなんとかならないだろうか」と悩んだり苦しんだりしているのに、専門家による適切なケアが受けられない。「鬱病」と診断され、抗鬱剤や抗不安剤でなんとか「しんどさ」を軽減させて堪えていた、という人もいっぱいいました。「精神分裂症の疑いあり」と診断され、自分の子ども時代の経験との矛盾に混乱することもあります(思春期以前に精神分裂症が発症することは、ほとんどありません)。
そういう人が、「自閉症スペクトラム」の診断を受けることでようやく安心した、ということは、珍しくはありません。自閉者同士の集まりでは、「ようやく『自閉症スペクトラム』診断が出ました」と嬉しそうに報告する場面がときどき見られ、同じ自閉者に苦笑いしながら「おめでとう(^_^;)」と言われていたりもします。
ですから、「自閉症スペクトラム」と診断されるというのは、「なんでもかんでも世間の規準に合わせようとしないで、自分に合った生き方をしないと、生きてゆくのがしんどいですよ」というお墨付みたいなものだと、あたしたちは考えています。
○「自閉症」の子どもをどう育てるか。
あたしたち自閉者、すなわち「自閉症」でありながら、どうにかこうにか社会に適応した人間の経験によれば、医学的な「自閉症」らしさというのは、「症状」というより、「環境に適応してゆくためのアプローチ」であるように思います。つまり、「自閉症」の子どもが、なんとか環境に適応してゆこうとする行動が、「『自閉症』の子どもに特徴的に見られる行動」なのではないかと思うのですよ。
ということは、「自閉症」の子どもを「普通」にしようという試み、つまり、「自閉症」の子どもの特徴的な行動を抑制することは、結果的に「自閉症」の子どもの社会適応を邪魔する結果になっちゃうんじゃないだろうか、ということなんです。
「自閉症スペクトラム」と診断された子どものうち、少なくとも八割くらいは「知能は正常以上」と判断されることを思い出してください。つまり、彼らは彼らなりに環境に適応できる能力を具(そな)えているわけです。ただ、その適応のしかたが独特であるのだと。「普通」のやりかたでは適応できないので、彼らなりのやりかたで適応するわけです。
ところが、大人がその「彼らなりのやりかた」を阻止してしまったら、適応の道が断たれてしまうんです。
自閉者と非・自閉者はタコとイカのように異なっているのではないか。そう言う人がいます。タコは決して「障害を持ったイカ」ではありません。タコとイカは別の環境に適応し、別の生き方をする、それぞれ別の個性を持った、別の生き物です。
「ねぇ、あなたの足って二本足りなくない?」
「あのー、私、イカじゃなくってタコなんですけど。」
「あと、全体的にぐにゃぐにゃしてる感じがするのよね。あなたにも骨っていうものがあるでしょう?」
「ですから、私はイカではなくてタコだと言うておろうに。」
「そんな狭いところに引きこもってないで、もっと広い世界に泳ぎ出ようという気持があなたにはないの?」
「だーかーらー、私はタコなんですってば。」
「ひ……ひどいっ! あなたなんかイカじゃないわっ!」
「……だからタコなんだってばさ。」
自閉者と「いわゆる『普通の人』」をめぐる状況というのは、これに近いものがあると思うのね。で、タコがイカのように振舞うのには無理があったりするわけですよ。世の中には「タコもイカも似たようなもんじゃねーか」みたいな意見はあるかもしれないけど、当人にとってみれば、それは自己の本質にかかわる重要な問題だったりもするわけです。
ただ、タコとイカと違って、同じ人間同士でありながら、非・自閉者カップルから自閉くんや自閉ちゃんが生まれたり、自閉者カップルから非・自閉者の子供が生まれたりするから話がややこしくなるのではないだろうか、といったことが、自閉者の間では云われています。両親がイカなのに子供がタコとか、両親がタコなのに子供がイカとかいったら困っちゃいますよね? とはいえ魚類などでは、一つの種の中に、外見や生態の上でほとんど別種のように違う複数のタイプの個体が存在する場合がありますから、「自然界ではそういうこともある」としか言いようがありませんが。
そんなわけで、人間には、大多数のイカ型人間(非・自閉型)と少数のタコ型人間(自閉型)が一定の比率で生まれ、それぞれ別の役割、別の生き方で生きてゆくようにできているのかもしれない、とマジメに考えている人もいたりします。こういう「自然界の中の役割」のことを「ニッチ(niche)」というのですが、非・自閉者は非・自閉者のニッチに、自閉者は自閉者のニッチに納まればそれぞれ居心地よく生きてゆけるように世の中はできていそうに思うのですよ。タコは蛸壷の中で暮してゆくのが身体に合っているわけです。イカにとってはそれはとても不自然なことなのだろうけれど、そもそも身体の“つくり”が違うのだからしょうがない。
イカが社会の大多数である社会で、タコがイカのように育てられたとしたら、うまく育つわけがありません。ですが、そのイカ社会の中に、なぜか代々タコの家系(自閉症は遺伝するのではないか、と云われています)があって、タコがタコとして育てられ、タコとしてのニッチに安住し、社会で生活してなんの不自由も不都合も違和感もない、ということがあったりするわけです。
とはいえ、こういうことを言っていると、「そんな無責任なことは、赤の他人だから言っていられるんだ! 実際に『自閉症』の子供を持った親の立場に立ったら、そんな気楽なことを言ってはいられないぞ!」とか言う人もいるだろーな、と思います。
ですが、実際に社会に適応している人を見ていると、うまく適応している人ほど、その「自閉症」らしさというものを武器にしているように見えるのね。ある意味極端。ある意味アンバランス。だけど、いい味出してんだよね、これが。
実際、世の中には自閉者にとっては非常に面白いと思われるのだけれど、非・自閉者にはちょっと耐えられないんじゃないだろうか、みたいな仕事はけっこうあります。あたし自身が長年身を置いてきた自然言語処理システムの開発の世界なんていうのはまさにそれ。「普通の人」は「文法」と聞いただけで逃げてしまいますが、なんでか自閉くん自閉ちゃんとは日本語の文法に関するあれやこれやの話題で盛り上がっちゃうんだよね(-_-;)。
こういう、「自閉症丸出し」の人間が、世間であまりいい顔をされないのは、あたしたちにも分かっています。だけど、言わせてもらえば、それって「普通の人」の側の問題なんだよね。
いわゆる「普通の人」があたしたち自閉者と接することで感情的に動揺し、ときにパニックを起して「この気狂(きちが)い!」とか叫んでしまう(家族に面と向かって「気狂い」呼ばわりされたという経験をしていない自閉者はほぼ皆無です(-_-;))というのは、いわゆる「普通の人」というのが純然たる「他者」を理解できないという<欠陥>によるわけです。その意味でいわゆる「普通の人」というのは、あらゆるものに「自己」を貼りつけてしまうわけです。これを「他己」とでも呼びましょうか。
で、いわゆる「普通の人」は、他者がその「他己」に沿って行動することを期待するわけですね。で、他者がその「他己」に期待される役割から逸脱すると、怒ったり嘆き哀しんだりパニックを起こしたりするわけです。けっこう身勝手な話なんですけどね、これ。だけど、「普通の人」は自分が身勝手な要求をしているとは思わないわけです。「他己」は他者に貼りつけちゃった時点ですでに<自己の一部>という認識を離れて、すなわち「異化」されているわけですから、それは他者に期待した自分の問題ではなくて、期待に応えてくれない他者の問題として認識されているわけです。
あたしたちタコたる自閉者にとっては、イカたる非・自閉者があたしたちに貼りつけ、期待する「イカとして当然ありうべきイカ像」というのが非常に迷惑だったりするのですよ。タコはタコとして生きたいんだー! あたしたちはイカじゃないぞー! そう叫んでしまうぞ。
「そんなのは夢物語だ。イカの世の中ではイカとして生きるしかないんだ。イカの世の中が嫌ならタコの国へ行け」。そういう人もいるのね。だけど、世の中を見渡すと、そういうものでもなかったりします。タコにはタコのニッチというものがある。
「いまにして思えば、うちの母方の祖父はあからさまに自閉症だった」「そういえば、父方の叔父さんも自閉症のような気がする」「従姉の子供がやっぱり自閉症スペクトラムと診断された」みたいな「自閉症一族」みたいな家系は珍しくないのね。で、「あそこの家はちょっと変わっている」くらいで通っていたりします。
そんな家系で生まれた子供が、「自閉症スペクトラム」と診断されたことで、その家の伝統に反して「“普通の子供”に育てなければいけない」みたいな話になるとかえって妙なことになったりします。
逆に、順調に育っている自閉くん自閉ちゃんのお母さんに「どうやって育てたんですか?」と訊くと、「普通に育てただけ」と答えられることがとても多いのね。だけど話を聞いてみるとあんまり一般的な「普通」ではなく、自閉系の「ふつう」だったりします。で、よく考えてみるとお母さん自身が自閉系(-_-;)。あたしたちにとっては、「自閉症」なんていうのはその程度のものなのね。
そう。自閉くん自閉ちゃんは、「自閉」の世界では「ふつうの子ども」でしかないんです。「自閉の子ども」なりの育て方をすれば、結果として、「普通の社会人」として社会で生きてゆける。これが、自閉者にとっても非・自閉者にとっても合理的で快適なありかただとは思いませんか?
こうなると、「自閉症」の“症”の字はいかにもジャマという気がします。いいとか悪いとかいった問題ではなくて、ただ“違う”だけなのだ、ということであれば、「自閉症」ではなく「自閉」でいいのではないか。あたしたちは、そう考えています。
○「自閉」という自由。「自閉」という自然。
「自閉症」という言葉は、「精神的な孤立」というところから名付けられました。
ところが、「自閉症スペクトラム」と診断された人同士が集まってみると、「自閉者には共通する感性がある」というのがわかってきました。インターネットのおかげで自閉者同士が知りあう機会が増えた現在では、「自閉はひとつの文化である」というところまで話は進み、「異文化としての自閉」ということまでが云われるようになっています。だけど盛り上がりには欠けているぞ。なにしろ「職人」「技術屋」「研究者」といったメンタリティと共通部分が高いので、集まっても「学会」みたいなノリになってしまいます。
ただ、この地味さ加減・マトモさ加減については反省の余地がある、とあたしたちは思うようになりました。あたしたち「社会にうまく適応している自閉者」だけでまとまっちゃって外に広がってゆかないから、社会的に孤立し苦しんでいる「自閉症」の人たちがあたしたちの存在に気がつかない。こういう文化、こういうコミュニティがあるんだよ、ということを、広く世間に知らしめる義務があたしたちにはあるのではないか。そう思うようになったのですね、あたしたちは。
あたしたちは、普通の人たちからは、堅苦しく、狭い、歪んだ世界に生きていると見られがちです。「こだわり」という檻の中に閉じこめられ、あるいは閉じこもっていると考えられがちです。けれど、あたしたちはあたしたちの規律を持ち、あたしたちの美学に従って慎み深く生きています。それと同時にあたしたちはとても“自由に”生きていたりするわけです。ただ、普通の人たちとはその“自由”のありかたが違い、普通の人にはあたしたちの生き方が理解しにくい、というだけのことなんです。
たとえばの話、「自由」というのは、単に「あらゆる行ないが許される」ということではありません。そこには、「人間本来の自然な欲求に基づいた行い」という規範が、おのずと組みこまれています。
「自閉」というのは、単に「異なっている」のではなく、「人間という種そのものの本質に根ざした、非・自閉とは別のありかた」です。その意味で、人間には「“自閉”である自由」があり、あたしたちにとって「“自閉”であること」は「自然なこと」だっ
たりもします。
そんなわけで、あたしたちから見ると、非・自閉者というのはあんまり幸せそうに生きてないなぁ、と思えたりもします。気分的には非・自閉者の社会というのは現代のアメリカ資本主義社会、あたしたち自閉者の社会というのは日本の中世(『堤中納言物語』とか『とりかえばや物語』とかいった、物語文学の世界)みたいな感じです。自閉的なライフスタイルというのは、自然であり、わりとラクな生き方でもあります。それはいわゆる「文明人」が、「自然人」のありかたとしてある意味理想としていながらも、「そんな生き方ができるわけがないじゃないか!」と自ら遠ざけている生き方に、かなり近いものだったりもするわけです。
まあ、非・自閉者が好きこのんで苛酷な生き方をしているのはいいんだけどさ、自閉者の多くはそういうライフスタイルを押しつけられることに対して苦痛を感じるのね。世俗を離れることと生産的・創造的な活動をすることは矛盾しないのだから、浮世離れした技術者・研究者として社会のお役に立ちつつ、つつましくひっそりと生きてゆければそれで十分だと思っているわけです。で、日本という社会にはそうした「社会の底辺を支える人」を尊重する文化があり、そういう愚直な生き方を賛美する伝統があります。その意味では日本というのは決して自閉者にとって住みにくい国ではありません。
だけど、そうした日本の中にも、「非・自閉者らしく生きなければならない」という圧迫の中で苦しんでいる自閉者というのが、いっぱいいるわけです。これ、周りの人も本人も不幸です。どうして素直に生きられないのかなぁ。そう思います。
だから、あたしたちは、「自閉」という自分たちの文化の中で安穏としていてはいけないと思うようになりました。世の中には、「自閉症」に苦しんでいる人がまだ大勢いるからです。 それは同時に、「非・自閉症」に苦しんでいる「普通の人」を救うことにもつながりそうな気が、あたしにはするのね。
この世から「自閉症」をなくそう。「自閉」という文化をこの社会に定着させよう。そう思ってあたしたちは活動を始めました。
「自分は“自閉症”ではないか?」と悩み苦しんでいる人。お子さんが「自閉症スペクトラム」と診断され、どうしたらいいか、誰に相談したらいいか分からなくて困っている人。あたしたちの世界を、ちょっと覗きに来てみてください。
別の生き方が、見つかるかもしれません。
(蘇好美(Maria)/
特殊教育相互支援ネットワーク 大森支部)
(二〇〇二年四月二十八日/Ver.0.1)
解説
このパンフレットは「『自閉症』というものをもっと広く理解してもらおう」とか、「『自閉症』に対する差別をなくそう」とか「『自閉症』という呼び名を止めよう」とか「『自閉症』を『自閉』と言い換えよう」とかいったことを目的としてはいません。
このパンフレットの主旨は、
「自閉症の子どもに、『普通の行動を取る』ことを強制すると、結果的に『まっとうな大人』になることを妨害することになる。逆に、『自閉症者らしく行動する』ことが、『まっとうな大人』になる近道である」
というものだったりします。
いままでの考え方は、こうです。
1)「健常者」というのは、「健常者に期待される行動を取る人(同時に、取れる人)」である。
2)したがって、「健常者」として認められるためには、「健常者」の行動原則、「健常者」の行動パターン、「健常者」の能力を見につけなければならない。
3)したがって、「自閉症」の人間は、まず「健常者」であろうとしなければならない。
そんなわけで、「自閉症」と診断された子どもたちは、「治療」を受けさせられたり、“健常者と同じことができるように”「訓練」させられたりしていたわけです。
ですが、こうしたアプローチは正しかったんでしょうか? たとえばの話、「手が麻痺していて絵筆が持てない人が絵を描こうとしたら、どうすればよいか?」ということなんですよ。
それはつまり、「手が動かない子どもが絵を描こうと思ったら、はたして“手を鍛えて絵筆を持てるように努力しなければならない”のか?」ということなんです。
絵筆が持てないのなら、手に絵筆を縛りつければいい。
手が動かなかったら、足で絵筆を持てばいい。
手も足も動かなかったら、舌でもなんでも使えばいい。
そういうことなんです。
自閉症方面の人間は、他者というものを「感情あるいは感覚によって、直感的に把握する」ことができません。ですから、それを理性によって把握しようとしている。つまり、「手(感情あるいは感覚)が使えないから足(理性)を使う」ということをしているわけです。
ところが、それに対して、「人間の心というのは、理屈では割切れないものだ。だから、理屈で理解しようと思っても無駄なのだ。だから感性を磨かなければいけないのだ」とかいって、見当違いの「情操教育」だの「思いやり」だの「豊かな心を育てる」だのとかいったトンチンカンな教育を施していて、自閉症の人間が他者を自分が期待したように捉えないといってふて腐れ、そのあげくに「やっぱり『自閉症』の人間には“本当の意味での他者”が理解できないのだ」と勝手に絶望する、というのがいままでの「自閉症」者に対する教育だったわけなのね。言っちゃ悪いけど。つまり、「手(感情あるいは感覚)がまったく使えないわけではないのだから、足(理性)に頼るな。手を鍛えろ」と。
で、あたしが言いたいのは、「そうじゃないんだ」ということであると。「非・自閉者のものの見方」以外に、“自閉者としての、ものの見方”があるんだと。世の中には手でなく足を使う文化もあるんだと。そういうことなわけです。
それは、どっちが上でどっちが下とかいうのではなく、ただ違うのだと。
で、どっちかが正常でどっちかが病的とかいったことではなくて、そもそも人間にはそれぞれの捉えかたというものがあって、自分が得意なほうに偏重するのであると。で、それぞれが別の“文化”として存在していて、それぞれメリットとデメリットを持っており、それぞれに適した場所に棲みわけているのだと。そういうことなんです。
しかも、それはアルゴリズム的な発想とデータ的な発想、アナログとディジタル、本能と学習のように、コンピュータのハードウェアの特性を反映しているのだから、もともと「つくり」の違うコンピュータに同じプログラムを実行させようっちゅーのに無理があるんだと。そういうことなのね。
そんなわけで、このパンフレットの構成は、
1)「自閉症」が増えている
「自閉症」というものに対する考え方が変わってきた結果、以前は「自閉症」と診断されなかった子どもが、「広い意味での『自閉症』」(すなわち「自閉症スペクトラム」)と診断されるようになった。
2)「自閉症」観はこう変わってきた
すなわち、以前は「自閉症」というと「知的障害」の一部という位置づけだったものが、その特徴(『人間関係を直感的に把握することができない』など)に着目して「自閉症スペクトラム」と診断されるようになり、その結果、「自閉症スペクトラム」ではあるけれど、社会的には「障害者」とみなされないケースが「自閉症」者のかなりの部分を占めるようになってきた。
3)「自閉症」は必ずしも“障害”ではない
「『自閉症』を“治(直)す”こと」イコール「社会に適応すること」ではない。しかし、「まず『自閉症』を治(直)さないと、社会に適応できない」と考える人がほとんどである。
4)「自閉症」と診断されることの意味
ところが、「『自閉症』を治(直)すことで社会に適応する」ことは本人にとって大変な苦痛を伴い、結果的に社会に適応したとしても、苦しみを抱えつづけることになる。そして、それ以前に、「『自閉症』を治(直)す」時点で挫折する危険性が非常に高い。
5)「自閉症」の子どもをどう育てるか。
したがって、「『自閉』の特性を活用することで社会に適応する」というアプローチを取ることが、適切である。あえて言うなら、「自閉」の行動原則や行動パターンというのは、「自閉」という特性を持った個体が適切に環境に適応してゆくために、生得的に組込まれた適応戦術に他ならない。それは、世の中を見回したときに、しばしば「自閉」的特性を武器にして生活し、成功している人をしばしば見かけるという事実からも分かる。
6)「自閉」という自由。「自閉」という自然。
そんなわけで、「自閉」者というものは、個体数から見ると少数派ではあるけれども、れっきとした個体群であり、社会においては一つの独立した「異文化」である。
ただし、そうした見解(あたしたちにとっては「事実」)は一般化しておらず、理解されてもいない。そのために、大多数の「自閉」者は、旧弊的な環境の中で孤立し、苦しんでいる。
そんなわけで、そうした苦しみを抱えている人、あるいは身近な人が苦しんでいる人は、あたしたちを見てほしい。その上で、あたしたちの主張が正しいか間違っているかを判断してほしい。
……といった具合になっているのですよ。
「ありのままの自分を伸ばす」ことと、「自分を殺す」ことは、社会に適応してゆく過程で、どっちも必要です。そして、子どもにはその両方の作用が内在されているのですよ。これはもう細胞レベルでプログラムされていると言っていいのね(アポトーシス、というのですが)。そんなわけで、「どこを伸ばしてどこを殺すか」は、子どもに任せてしまっていいのではないかと思うんです。
「助長」とか「角を矯めて牛を殺す」とかいったことにならないように。それをあたしたちは訴えたいと思いました。
子どもは、強いです。大人が、親が、教師が思っているのよりも、ずっと。そして、自分がどっちへ進むべきかも、ちゃんと知っています。その子どもの「強さ」と戦おうとするのは、雨を下から上に降らせようとするようなものです。
子どもの強さと正しさを信じてあげてください。
(Maria)