いきなり文章講座
(現在改訂増補中)
2002/09/02 改版
◎前口上
いますぐ文章がうまくなる、といった方法はないだろうか。「もう、今、すぐ、」っていうか、「あと一時間。いや四十五分。できれば三十分。」っつーくらい、もう、すぐ、いきなり、唐突に文章がうまくなる。
まあ、なかなか世の中そういったうまい話はころがっていないのだけど、あなたがもしそこそこコンピュータ使って文章が書けるというのなら、まあそれなりに何とかならないこともないかもしれない、ということは言えるのですね。
この文章講座、もともとは自閉症方面の(=自閉症あるいはそれに近い障害を抱えている)ネットワーカーのために、オンラインで開講されたものだったりします。
自閉症方面に限らず、コミュニケーションに障害のある人間が就学したり就職したりしたときに、どうしても頼らざるを得ないのが「文章によるコミュニケーション」だったりするわけです。つまり、会話によるコミュニケーション、表情や身ぶりによるコミュニケーションがうまくゆかないので、会話をしているうちに混乱してしまうのですね。その点、文章だったらゆっくり読んでゆっくり考えてゆっくり書くことができます。
ただし、あんまりゆっくりもしていられないのね。少なくとも口頭で情報をやりとりするよりも格段に(つまり、はっきりと違いがわかるくらい)仕事の能率が上がってミスが減るくらいの効果がないと、人はわざわざ「読む」「書く」といったことをしてくれません。ですから、パーソナルコンピュータ、(ソフトウェアとしての)ワードプロセッサ、電子メール、ファクシミリ、複写機といったものを活用して、すぐに、できれば今日のうちに、今やっている仕事で成果を上げたい、ということになるわけです。
そんなわけで、この文章講座、めちゃめちゃ即物的です。「名文」とか「よい文章」とかを書くためのものでもありません。だけど、文章に自信はつくと思います。
この文章講座から、何人もの書き手が育ってゆきました。実績はあります。
お試しあれ。
◎はじめに
文章を書こうとしたときに、「思ったことを、素直に、ありのままに、自由に表現すればいいんですよ」とアドバイスを受けた人は多いと思う。
だけど、そんなのは「自分が読んで『そうだ、私の言いたいことはこれなのだ』と思うような『自然な』表現」が「自然に」出てくる人に対しては有効かもしれないけれど、少なくともあたしにはまったく役に立たなかった。だいたい、多くの人は、自分が読んでみても「私が言いたかったのはこういうことではない」あるいは「私が言いたかったのはこういうことなのか?」と感じてしまうような文章しか書けないから悩んでいるのである。自分の文章が好きになれたら、文章力は成ったも同然。自分で読んでて、「どうしてこんな文章しか書けないんだろう?」みたいな文章しか書けないから、困っているのである。
だから、多くの場合、最初に身につけるべき技術は、「無味無臭・無色透明な『水のような文章』を書く方法」だったりするのである。会話における沈黙、音楽における静寂、通信における搬送波(キャリア)のように、「余計なものを伝えず、必要なものを伝える」ことの基盤を作ること。自分の中にあるものが、なるべく純粋な形で出るような「姿勢」を作ること。そこが出発点だと思う。
味付けというのは、その後で考えればいい。「起承転結」だとか「5W1H」なんていうのは、とにかく「書ける」ようになってから問題にすればいいことなのである。
そんなわけで、「最初にこれだけは守ろう」というのは、以下の四つ†。
1)行頭には、全角スペースを一個入れる。
2)“!”や“?”で文が切れる場合は、全角スペース一文字を使って空ける。
3)リーダーは三点リーダーを二個使い、『……』とする。
4)書名はカッコ(『』)で括る。
(†なお、「全角スペースの入力方法がわからない」「『……』やカッコ(『』)の入力方法がわからない」という人も、おそらくおられるのですね。そこのところはお手持ちのパーソナルコンピュータの文字入力の方法について勉強してください。)
◎改行、句読点、カッコの扱い
文章の構成を表わすこの三つは、文章を書き上げてから、文章全体を見ながら、大きい方から小さい方へ、トップダウンに切り分けてゆくのがコツです。
たとえば、
> 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す。
だったら、
>[大日本帝国は][{万世一系の天皇}{これを統治す}]。
という構造を持っているので、
> 大日本帝国は、万世一系の天皇これを統治す。
はOKだけど、
> 大日本帝国は万世一系の天皇、これを統治す
としてはいけない、ということです。大きな塊で先に切ってからでないと、小さな塊を切りわけてはいけない。だから、「万世一系の天皇」と「これを統治す」を二つに分けたいと思ったら、「大日本帝国は」の後に点を打って、以下のようにします。
> 大日本帝国は、万世一系の天皇、これを統治す。
そんなわけで、文章全体を章→段落→文と区切っていって、切れ目が多すぎて構造が見えなくなってきたら、随時カッコを使う、ということをします。
この部分をもうちょっと具体的にやってみましょう。例は田川建三さんの『書物としての新約聖書』(勁草書房)(←なぜか持ってたりする(-_-;))の第一章・第一節『はじめに』。
「新約聖書」とはいったいどういう書物であろうか。と、問われても、簡単には説明のしようもない。もともとは、これは一冊の書物ではなかった。それぞれ別の、ほとんどは相互に直接の関係もない、相互に相当程度異なる、しばしば相互にかなり矛盾することもある、由来も著者も異なる二十七個の異なった文書であったのだ。それが後になって、西暦二世紀後半から五世紀までの間に、つまりそれらの文書が書かれてから三百年もしくはそれ以上かかって、徐々に集められ、一つにまとめられて、正統派のキリスト教会の正典とされたのである。だから、書物の中身から言えば、一世紀(ものによっては二世紀前半)のキリスト教文書の主なものを集めた文書集にすぎない。全体としてのまとまりも、統一性もない。しかしキリスト教会の伝統的な建て前からすれば、これは聖書であり、正典である。つまり、当然、全体としてまとまった、統一性のある書物でなければならない。「一冊の書物」でなければならないのである。その「書物」に「新約(新しい契約)」という名がつけられた。しかし、それらの個々の文書の著者たちは、自分が書いた文書が、数世紀後になって、自分がほとんど知らない、あるいはまったく知らない、他の著者たちの書いた、しばしば異質でさえある他の多くの文書と一緒にされて、一冊の書物にされる、などということは、想像もしていなかっただろう。
これをあたし流にアレンジすると、こうなります。
「『新約聖書』とは、いったいどういう書物であろうか」と問われても、簡単には説明のしようもない。
もともとは、これは一冊の書物ではなかった。それぞれ別の(ほとんどは相互に直接の関係もない、相互に相当程度異なる、しばしば相互にかなり矛盾することもある)、由来も著者も異なる二十七個の異なった文書であったのだ。それが後になって、西暦二世紀後半から五世紀までの間に(つまり、それらの文書が書かれてから三百年もしくはそれ以上かかって)徐々に集められ、一つにまとめられて、正統派のキリスト教会の正典とされたのである。
だから、書物の中身から言えば、一世紀(ものによっては二世紀前半)のキリスト教文書の主なものを集めた文書集にすぎない。全体としてのまとまりも、統一性もない。しかしキリスト教会の伝統的な建て前からすれば、これは聖書であり、正典である。つまり、当然のこととして、「全体としてまとまった、統一性のある書物」でなければならない。すなわち「一冊の書物」でなければならないのである。
その「書物」に『新約(新しい契約)』という名がつけられた。しかし、それらの個々の文書の著者たちは、「自分が書いた文書が、数世紀後になって、自分がほとんど知らない(あるいは、まったく知らない)他の著者たちの書いた、しばしば異質でさえある他の多くの文書と一緒にされて、一冊の書物にされる」などということは、想像もしていなかっただろう。
えー、この文章から、丸括弧でくくられた部分を消してみましょう。すると、こうなります。
「『新約聖書』とは、いったいどういう書物であろうか」と問われても、簡単には説明のしようもない。
もともとは、これは一冊の書物ではなかった。それぞれ別の、由来も著者も異なる二十七個の異なった文書であったのだ。それが後になって、西暦二世紀後半から五世紀までの間に徐々に集められ、一つにまとめられて、正統派のキリスト教会の正典とされたのである。
だから、書物の中身から言えば、一世紀のキリスト教文書の主なものを集めた文書集にすぎない。全体としてのまとまりも、統一性もない。しかしキリスト教会の伝統的な建て前からすれば、これは聖書であり、正典である。つまり、当然のこととして、「全体としてまとまった、統一性のある書物」でなければならない。すなわち「一冊の書物」でなければならないのである。
その「書物」に『新約』という名がつけられた。しかし、それらの個々の文書の著者たちは、「自分が書いた文書が、数世紀後になって、自分がほとんど知らない他の著者たちの書いた、しばしば異質でさえある他の多くの文書と一緒にされて、一冊の書物にされる」などということは、想像もしていなかっただろう。
文意はほとんど変わっていません。つまり、丸括弧というのは「省略しても、大筋で影響のないもの」を表わすということだったりします。そんなわけで、自分の文章を読んで、「くどい」と思ったら、なくてもいい部分を丸括弧でくくってみる、というのも一つの手です。
なお、電話番号なんかでも、「03(3333)4444」なんていう書き方は間違い、ということになります。なんでかといえば、「034444」に電話を掛けても、この電話番号にはつながらないからなんですね。正式には、「(03)3333−4444」といったふうに表記します。同じ市外局番「03」の地域では、「33334444」に掛ければつながりますから。同じ理由で、携帯電話の番号を表記するときは、括弧を使いません。省略できる部分がないからです。
◎ちゃんとした文章
最初のうちは、「ちゃんとした文章」で練習してください。なお、ここでいう「ちゃんとした文章」というのは、以下の二つのことを守った文章です。
一つは、
1)動詞の勧誘・命令
2)です:です・でしょう・でした
3)ます:ます・ません・ましょう・ました
以外の文型を使わない。
で、もう一つは、
「『連体形の後には体言、連用形の後には用言』という原則を守る」
ということです。
この規準だと、
「花が咲く」
「桜が美しい」
といった「連体形で終わっている文章」は、「ちゃんとした文章」ではないことになります。そこで、これを「ちゃんとした文章」に直すと、
「花が咲きます」
「桜が美しく咲いています」
みたいなことになります。
で、これはなんのためにするかというと、
*無意識のうちに省略してしまう癖をつけない。
*文章の骨組みを意識する。
とかいったことの訓練だったりします。
これは慣れないうちはけっこう面倒なものです。なにしろ、「彼女は背が高いです」とか、つい使っちゃいますから。「高い」は連体形で、「です」の前には名詞が来なければならないので、何か名詞を補って、「彼女は背が高い××です」という形にしなければなりません。じゃあ、そこにぴったり当てはまる名詞は何か、と考えだすと、これが思いつかないのですね。「彼女は背が高い女性です」だと、「彼女」と「女性」が冗長な気がします。「彼女は背が高うございます」というのも、なにか違いそうです。そんなわけで、あたしは「彼女は背が高かったりするわけです」とかいった文体をちょくちょく使ったりするのだな。こういう文体だと、「雰囲気で喋っている」風情がそのまま出るような気がするのですよ。これを「ちゃんとした」文章にしようと思うと、「彼女は女性としては背の高いほうだと思います」みたいな書き方をせざるを得なくなります。つまり、自分が思っていることが、嫌でも形になるというメリットがあります。
◎かな開きと送りがなの原則
一般的な原則としては文部省とか新聞社とかが決めたものがあるので、そちらを参照してください。ここでは、「こうするといいですよ」というのだけを紹介します。
意外に知られていない原則として、「『動詞の連用形現在時制+動詞』は、二つの動詞が合わさって一つの意味になっているときは、後のほうを開くと読みやすい」というのがあります。
「混ぜ合わせる」→「混ぜあわせる」
「込み合う」→「込みあう」
「書き連ねる」→「書きつらねる」
これは、「漢字以外の文字から漢字に変化するところで文節が切れることが多い」という経験則の裏返しなんですね。だから、「えん罪(冤罪)」「ら致(拉致)」「すい星(彗星)」なんていうのは、読みにくい。途中で切れちゃうからです。ただし、前者の動詞があまり漢字表記されないもの(「はみ出す」「ぶち壊し」「はち切れる」)に関しては例外とします。
また、これは「二つの動詞が合わさって一つの意味になっている」場合に当てはまる原則ですから、対句の場合(「出し入れ」「読み書き」「上げ下げ」)はこの限りではありません。
また、「書込む」「繰入れる」「持出す」などは、「書込」「繰入」「持出」といった語があるので、そのまま漢字表記します。
なお、「漢語は漢字表記」が原則ですが、「じっさい(実際)」「せっかく(折角)」「しょせん(所詮)」なんかは慣用句に近いので、ひらがな書きしたほうが自然に感じるひとが多いように思います。
あとは、読みやすさを考えて適宜工夫する例もあります。あたしの場合、「実は」は、「実(み)は」と読んでしまいそうになるので、音読みだけど「じつは」とひらがな書きしています。また、「入れない」には「はいれない/いれない」の二つの読みがあるので、「入(い)れない」の場合は初出のときだけ読みを示し、「入(はい)れない」の場合は常に読みを示す、のを原則にしています。また、「行った」も「いった/おこなった」の両方の読みがありうるので、「いった」は「行った」、「おこなった」は「行なった」と書きわけています。
◎顔文字使用マニュアル
1)第三者的な視点から読み、文字通りの意味に受取ること。
勝手に勘繰って怒ったりしないこと。トラブルが発生する場合は、ほとんどの場合怒ったほうに原因がある。
「はにゃー(-)_(-)」(遮光器土偶である)みたいな意図不明なものは相手を考えて使うこと。たまに、馬鹿にされたと思って訳もわからず怒りだす人がいる。
「自分がどう思っているか」は正直に、しかも正確に記述しないと喧嘩の原因になる。皮肉や当てこすりと間違えられそうな、遠まわしな表現はなるべく避けること。
2)ネット上の感情表現は自分中心というのが原則。「ええい、ばかものが」とか書いてあった場合でも、これは自分に向けられた言葉である可能性が高く、「ワタシって馬鹿(^_^;)」くらいの表現が適当。「畜生!」と書くより、「畜生 (T_T)」と書く。
なお、本当に怒っている場合は、「今なら冗談で済ませてやる」という思いをこめて「ええ度胸やのう(-_-メ)。」「(-_-X)殺す。」あたりが出てくるはずである。
3)顔文字の基本中の基本である「 (^_^)」は、実のところほとんど使われない。使うとすれば、なにかいいことがあった場合に、称讃や祝福、あるいは感謝の場合である。「やったね(^_^)」「行ってらっしゃーい(^_^)/~」などがその例。
Linux使いは「 :-)」を使うことがあるが、閉じ括弧が単独で出てくるところから構文チェッカを混乱させる危険性があり、なるべく使用しないように。同様の理由で「 (^_^;」も括弧が閉じていないから不可。
4)「(^_^;)」(汗顔(かんがん)の至り)、「 (T_T)」(滂沱(ぼうだ))、「(-_-メ)」(憤怒(ふんぬ))の三つがだいたい一般的で、どこでも通じる。ただし。「(-_-メ)」(憤怒)は本来は半角カナなのだけれど、多くのネットでは半角カナ文字の使用を禁止しているので、全角カナを用いるか大文字のXを使う(「(-_-X)」)。また、顔文字は「半角二文字が全角漢字一文字と同じ幅」ということを想定しているので、半角奇数文字分の顔文字は適宜半角スペースを補って行末が凸凹にならないよう調整すると見栄えがよい。
5)以下、おさらいを含めて例を列挙する。
「何やってんだか(^_^;)」(汗顔の至り)
「何てこったい (T_T)」(滂沱)
「いつか殺す(-_-メ)」(憤怒。半角カナ使用不可。「(-_-X)」も可)
「やったじゃん (^_^)」(祝福・称賛)「ありがとうございます (^_^)」(感謝)
「行ってらっしゃーい (^_^)/~」「行ってきまーす (^_^)/~」(ハンカチを振っている)
「哀れなものである (-_-)」(悟っている)
「 うーむ(-_-;)」(げんなりしている)
「ご迷惑をおかけしました。へこへこ m(_ _)m」(手をついて頭を下げている)
「よろしくお願いしますだ m(_ _)m。」(手をついて頭を下げている)
「やっほー (^o^)/」(呼びかけている)
「あちゃあ (*_*)」(参っている)
「きゅう。 (+_+)」(目がくらんでいる等)
「あ痛たたたたた (>_<)」(効いている)
「あぁ痛ぇ(+_+#)」(怪我をした等)
「うわあああああ (@_@)」(怖い物を見た)
「一瞬、頭ん中真っ白 (O_O)」(茫然自失している)
「何だこれは (Q_Q)」(下を見つめている)
「ひぇぇぇえ(^_^!)」(冷汗をかいている)
「ぐう。(_ _)zzZ」(寝ている)
「あららららら。 ~|(^_^)/~」(ずっこけている)
「d(^_-)☆」「 d(^_-)~*」「 (-_^)b~*」(指を立ててウィンクしている)
などがある。
問題)上に示した顔文字表現を用いて、文章を作りなさい。
解答例)
先日、久々に秋葉原めぐりをしようと友人(ぬ)氏とまめちゃんの三人で待合せをした(註1)。
場所はラジ館四階の自販機前である。遅刻常習犯のまめちゃんに「五分前厳守ね」とか念を押しておきながら、自分が十分の遅刻(^_^;)。「済まぬ、待たせた」。(ぬ)氏が「いや、まだまめちゃんが来てない」という。それで自宅に電話掛けたら、「ああ、これから出るとこや」(-_-メ)。電話くらいせいっちゅーの(註2)。「そっち着いたら携帯に電話するから」というので先にゆくことにした。
昨今のハードの性能向上と価格低下には恐るべきものがある。特に周辺機器がすごい。「もはやハードはナマモノという時代ですな」「諸行無常やのぅ(-_-)」と(ぬ)氏(註3)。そういえば新型iMacは十万円を切るという。俺のIIciはいくらしたと思ってるんだぁぁぁあ(T_T)。「プリンタが安いのう」と(ぬ)氏。「けどインクジェット遅いやん」「一台三万切っちょるもん、ガーッと十台くらい並べて出力したらええねん。なんならページ数分だけプリンタ並べてな、超並列処理すんねん。そしたら一部十秒で終いや」。怖い人だ(^_^!)。
それから(ぬ)氏につきあってパーツ関係の店をあっちゃこっちゃ回って万世麺店に入ったらまめちゃんがいた。「『電話する』て言うとったやんか」「じつは出るとき携帯忘れて、電話掛けよう思たら番号がわからんかった」(_ _)zzZ。困ったものである(註4)。
「気ぃつけや。O川が探しとるで」と、まめちゃん。「なんでや」「W手課長がのう、月曜朝イチ納品とか言うてユーザと約束してまいよったねん。ほんでもって明日中に物件上げな言うて、みーさん探しとるちゅうねん」「しょうもなぁ―あれは機能削ってやっと水曜納期いうてユーザと話ついとんのやけどな」「昨日会社に『水曜言うたけど、ほんまにもうちょい早うならんか』ちゅうて煽りの電話があったらしいねん。そんで課長が浮き足立ってもうたらしいな。で、K池とO川に『何とかせぇ』言うたんやけど、『みーさんが居らな、どうもならん』ちゅうて、したら課長が『ほんなら首に縄つけてでも引っ張ってこい』言うて」「あ痛ぁ(+_+#)。けど、お前なんで知っとんねん」「さっきコンピュータ館の一階でO川に会うたねん。みーさん探しとるいうて。『今日はたしか葛西の水族館行くいうとったけどな?』て言うといたわ」「すまぬ、恩に着る」。
「これは駅の方戻るとまずいのちゃうか」とか言いながらMac館に向かって歩いていると、まめちゃんが突然立ちどまった。指差す先を見ると、Mac館の前をO川がうろうろしている(@_@)。ひぇぇぇぇえ。「何や。あいつMacユーザちゃうやんか」とつぶやきつつ回れ右をすると、前方にK池がいた(O_O)。俺と(ぬ)氏は慌てて手近なビルに飛込み、まめちゃんが「よう、K池やんか」と話しかける。しばらくしてK池と別れたまめちゃんは「あいつらMac関係のショップ回っとるらしい。K池はMacユーザやろ」。「まずいな、逃げるべ」「んだんだ」(ぬ)氏も賛成する。
けっきょくその日は銀座のライオンで痛飲して終電で帰ったのだが、帰ったら玄関のドアに「明日日曜日は出社のこと」と貼紙がしてあった(-_-;)。破って捨てたことは言うまでもない。
註1)
この文章からは、(ぬ)氏というのは、おそらく自分の文章の後に「(ぬ)」と署名を入れる習慣があると窺い知れる。後で出てくる「O川」とか「K池」というのは、女性週刊誌の「九州出身でバンド活動も行なっているお笑いタレントT.U」「OS成金として有名な富豪W.G」「米国最大級のコンピュータ・メーカーI社」とかいうのと同じく、「読む奴が読めばだいたい見当がついてしまうため、仮名にしてもほとんど意味がない」場合に用いる手法。時には「特に名を秘す某松下電気産業株式会社(仮名)の創業者で特に名を秘す某松下幸之助社長(仮名)」「言っとるやないですか」みたいな身も蓋もないネタもある。
ついでながら、(ぬ)氏、まめちゃん、みーさんの三人は妙な日本語を喋っているが、これは三人とも理工系であるという理由と、オフ日で気抜けしているという雰囲気による。専門的な話を東京弁でまくしたてると、いかにも嵩にかかったように聞こえてしまうので、オフの気分のときは東北弁・関西弁(註の註)・落語口調などで喋るひとがしばしばいる。たとえば京都大学名誉教授の森毅先生は生まれも育ちも関東だが、(講義も含めて)普段の語り口は京都弁であり、「∴」記号も「ゆえに」ではなく「へてから」とお読みになる。なお、女性の場合は福島弁(つまりは発音がクリアーな標準語で文法が東北弁で、しかも高低アクセントがぼきぼき折れずに歌うような滑らかなアクセントだとほぼ完璧)がいちばんソソる、という話もある。「やっぱ昔の80X86系は設計が汚いべ。放熱でベーコン焼けるたら言っとらん?」「んだんだぁ。やっぱPOWER系だべ。iMacはファンがないもんで静かだし、見た目もめんこいだよ」といった会話を聞いてへなへなと力が抜けてしまうのは、絶対に私だけではあるまい。
註の註)
関西における関西以外の出身の研究者の標準語は、京都でも大阪でも奈良でもない「けいはんな方言」だったりする。これはいわゆる標準語で喋っていると、「江戸者は」「東京者は」と言われて風当たりが強くなるために、九州、中国、四国、関東、東北といった地方の人間がなんとか関西弁を喋ろうと努力した結果、生まれたものである(東京で関西弁を喋っている関西人は多いが、大阪で東京弁を使う東京人はかなり少ない。それだけ風当たりが強いのである)。ただし、「関西弁」そのものではなく、あくまで「関西弁を元に、理論的に構築された標準語」である。つまり、「けいはんな方言」はエスペラント語のような人工言語なのである。
言語的には、「行けへん」ではなく「行かれへん」、「来れへん」ではなく「来られへん」、「出れへん」ではなく「出られへん」となるように、省略が少なく、不規則な表現が少ないのが特徴。また、アクセントも関西弁よりも東京アクセントに近いか、あるいは東京アクセントから機械的に置換えられた形になっているため、九州出身のアナウンサーが話す標準語のような、やや一本調子のアクセントとなる。これはアナウンサー用のアクセント辞典はあっても、「正調関西弁アクセント辞典」といったものが存在しないからだと思われる。
また、「ぱろぱろしよる」(「パロパロ」はタガログ語で、「蝶々」。あっちこっち目移りして腰が定まらないこと)「けらけらええんやないでしょうか?」(「ケラケラ」はインドネシア語で、「まあまあ」「だいたい」に相当)「ぽれぽれ行きまっしょ」(「ポレポレ」はマサイ語。「のんびり」「ゆっくり」など)といった、妙にローカルな外来の擬声語が混じるのも特徴。
註2)
ちょっと微妙な用法。『「ああ、これから出るとこや」(-_-メ)』というふうに、括弧の外に顔マークが出ているときは、怒っているのは書き手である。
註3)
註2とは逆の用法。『「諸行無常やのぅ(-_-)」』のように括弧の中に顔マークがあるときは、悟っているのは話し手である。
註4)
これはマンガを読みこなしていないと分からないかも。『「じつは出るとき携帯忘れて、電話掛けよう思たら番号がわからんかった」(_ _)zzZ。困ったものである。』の部分でなぜ寝てしまうかというと、これはいわゆる「ずっこけ」のパターンなのである。つまり力が抜けるあまり寝てしまうということ。「ずっこけ」には「卓袱台引っくり返し系(切れかかっている)」「つんのめり系」「のけぞり系/滑り系」「踊り系」といろいろあるが、これらには適切な顔文字がない。誰か開発してほしい。
◎小説の三つの要素
小説というのは、「会話」「描写」「記述」の三つの要素からできているとあたしは考えています。
「会話」というのは、そういう会話を生み出すことのできるキャラクター(の組合せ)、というものと不即不離なので、あたしという存在が生まれた、という事情があります。自伝的小説を書くときに、「自分とは別の自分(本質的な部分では自分なのだけれど、生い立ちや年齢・性別などはぜんぜん違う人物)」を創造するというのは一つの方法だと思います。芥川竜之介や夏目漱石は参考になると思うぞ。
「描写」はいまだにどうやったら上達するのかよく分かりません。なまじ読書量が多いせいか、ついつい紋切り型の描写にハマッってしまうのです。逆に紋切り型の描写をこれでもかこれでもかまだ足りないかと注ぎこむような文体、というのをスタイルにするのも面白いかもしれません。しつこいけど。
落語をはじめとする古典的な話芸は参考になりそうに思います。で、他にもいろんな人の話を聞いて、表現の在庫を増やしておくといいと思います。
あたしは「記述」だけで勝負しているようなところがあります。これは論文だとか技術文書だとかをどれだけ書いたか、ということである程度決まっちゃう気がします。もっとも、だらだらと書くのではなくて、「わかりやすく」「正確で」「読みやすい」文章を心がけつつ書く、ということです。この点に関しては、『理科系の作文技術』など、いろんな本が出ています。
小説は「目で読む」部分があるのですが、同時に「耳で読む」部分もあります。口頭で発表したり朗読したりといったことを意識しつつ文章を書き、文字でただ読んだのでは伝わらないニュアンスを、文字表現を工夫して伝える、というのが一つのやりかたです。そもそも「読点」というのが「息継ぎ」なのですから、「話す・聞く」を意識しないとどこにテンを打ったらいいのかわかりません。
◎自然な語順
日本語とラテン語はじつはよく似ていて、日本語の「てにをは」に相当する名詞の格変化が(英語では人称名詞以外の名詞には格変化がないのに対して)すべての名詞にあります。そんなわけで、日本語もラテン語も語順が入れ替わっても文の意味は原則的に変わらないし、わざわざ言う必要のないことは言わなくてもいい。
「思う故に存在す」(デカルト)や「来た、見た、勝った」(シーザー)といった文はもともとはラテン語ですが、日本語には直訳できても英語には直訳できません。
そんなわけで、日本語の文章では「書くべきことは書き、必要のないことは書かない」というのがルールになります。日本語で日記をつけると「今日は古本屋に行って、帰りに喫茶店に寄ってコーヒーを飲んだ」みたいに主語はいっさいなしで書けますが、英語だと「私は……私は……」とやたら“I”が出てくることになります。
また、“強調転置”といって、「重要なことは前に来る」という原則があります。「象は長い鼻の動物です」で、「鼻」を強調すると「象は鼻が長い動物です」となって、「鼻」と「長い」の間で強調転置が起きます。
これとは逆に、後にくる語が強調される場合が、「です」「である」「だ」で結合する場合にはあります。「今日は彼女の誕生日だった」と「彼女の誕生日は今日だった」みたいな例が、それ。とはいえ「何だこれは」と「これは何だ?」の場合は、どちらが強調されているか微妙な部分もありますが。
なお、時間と場所は先頭にくるのが基本。
◎長く入りくんだ文章をどう料理するか。
コツその1。入りくんだ文章は、ほぐして並べる。
たとえば、こんな文章。日本国憲法第一条、天皇条項というやつです。
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
これは、
1)日本国の主権は、日本国民に存する。(主権在民)
2)天皇は、日本国民の象徴であり、日本国民統合の象徴である。(象徴天皇)
3)天皇の地位は、日本国民の総意に基づく。
という三つの文からなっているわけです。で、(1)は「天皇は実権を持たず(天皇の象徴性)、主権はあくまで国民にある」という「アメリカ政府向けのメッセージ」であり、(2)は「戦後の日本をまとめてゆくためには、<天皇>というシンボル(象徴)が必要だ」という「国内向けのメッセージ」だということができます。そんでもって、その二つの両方をいちばん最初の条項に一緒に詰めこもうとして、こういうややこしい文章になってしまったのね。
で、その二つをくっつける「糊」の役割を果たしたのが、(3)の「天皇の地位は、日本国民の総意に基づく」なわけです。そんなわけで、「基づく」と連体形終わりになっちゃって、なんとなく落ちつかない文章になっています。だいたい「日本国民の総意に基づく」と言ったって、日本国民を対象にアンケート調査をしたとかいう話でもないわけだから、この「天皇の地位は、日本国民の総意に基づく」の部分が具体的にどういう意味なのかはまったく分りません。へ〜ん〜な〜の〜。
あたしが思うに、(1)の「日本国の主権は、日本国民に存する」は、第一章の『天皇』ではなく、第三章の『国民の権利および義務』のほうに持ってゆくのが筋です。で、(3)の「天皇の地位は、日本国民の総意に基づく」の部分は削ってしまって、その根拠については別に論じたうえで、政府の見解を公式に発表してもらいたいと思います。
また、文章が長くなると、全体の係受けの関係がだんだんややこしくなってきて読むのに苦労するようになります。
「○○したのに、××だった。」→「○○した。なのに××だった。」
「○○したら、××だった。」→「○○した。そしたら××だった。」
といったように、接続助詞を接続詞に置き換えることで文を分けて、短く読みやすくする方法は覚えておくと、けっこう役に立ちます。
◎伝える必要、読む快感、伝える技術に読ませる芸
「単なる情報の羅列では、だれも読んでくれない」というようなことを言う人がいます。これ、間違いです。それが本当だったら新聞の株式欄を読む人はいないし、時刻表マニアも存在しません。
投資家は株式欄の数字を「ある枠組」の中で捉えます。鉄道マニアは時刻表の数字を、気象関係者は気温や気圧や風向・風速や雨量といった数字を、自分の中にある「ある枠組」の中で捉えます。
そんなわけで、何かを伝えるときは、伝える「内容」だけでなく「解釈の枠組」のようなものを伝えなければなりません。その枠組なしでは情報は受取ってもらえません。枠組が先、情報が後。その意味では、自分の「枠組」を一般化できる客観性が書き手には要求されます。
その意味で、「書くことは考えることである」と言うことができます。自分の中に存在する「考え」は、そのままでは空中の楼閣です。それを、「一般性」という大地に基礎を下ろした鞏固な構造物にすること。これが「書く」ということです。
そんなわけで、一般性や科学性や論理性のない文章は、単なる「砂上の楼閣」だったりします。これは文学においても同じで、古典だとか文化だとか民俗だとかいったものに根ざしていない文章は、読み手の共感を得られません。
文章は、まず読んでいて気持がいいことが大切です。単に「読みやすい」ことも大事ですが、「読む快感」も必要です。口に出してみて口調がよくない文章は、読んでも快適ではありません。
口調を整えるための常套手段は、対句の活用です。「血沸き肉躍る」「願ったり叶ったり」「右顧左眄」といった表現はこまめにストックしておきましょう。適度な冗長性は文章を読みやすくします。むしろ、短い文章ほどぴしっと決まる表現を要求されるので、豊富な語彙を要求されます。
◎「起承転結」の嘘
文章の上手・下手というのは、才能ではないように思います(正確にいうと、「多くの人が考えているほど、才能の影響は大きくない」ということです)。「自分に合った基本パターンを見つけて、その組合せを考える」という、スタイルの問題だとあたしは考えています。ですから、Mr.Motoのスタイルで書いたほうがうまく表現できることもあるし、あたしのスタイルで書いたほうが表現しやすいこともある。
文章の組立てでもそうです。
「一般にはAだと言われている。しかし、Aであると考えると不都合な事実がある。ところがBだと考えると、すっきりと説明できる。したがって、Bである。」
こういったスタンダードな文章は、所長さんのスタイル。相手が最後まで自分の話を聞いてくれるときの論法。徹底型。
「Bである。」とまず驚かせておいて、「Bだと考えると、こんなふうにうまく説明できる。」とかやっちゃうのはMr.Motoのスタイル。まず、「つかむ」ところから入ります。「つかんで、引っ張って、ひねって、落とす」話芸型。
「一般にはAだと言われるけど、それって本当なの?」はあたしのスタイル。「一緒に悩む」という感情移入型。
KILROYさんは……なんていうんだろ。質問したり相談したりするふりをして相手を説得しちゃったりとか……『ASって病気なの?』(No.3306)みたいな、読んでるうちに「あれ? あれ?」みたいに自分の思考の枠組が変えられてっちゃうような不可思議文体。
まあ……KILROYさんのは別にしても、「話のもってゆきかた」(ストーリー、ですね)みたいなものは、「盗める」ものだと思います。
これをきっかけにちょっと冒険心を起こして、いろんな文章スタイルを試してみてはいかがでしょうか。
新しい文章のスタイル、新しい自分に出会えるかもしれませんよ。
◎記録すること、電子化すること。(TBD)
「書くこと」の意味についてはうちのスタッフが何度か書いた。そんなわけで、今回は「書いておくこと」と「電子化しておくこと」の意味について書いておくことにする。
人間は忘れる動物である。ソフトウェア開発の仕事をしていると、「三日前の自分は他人だ」というのがよくわかる。ところがまったくの他人だったら腹も立つまいが、中途半端に他人なものだからじつに腹が立つ。プログラムを一読してなにやら妙なスタイルで書かれているのを見て、「なんじゃこりゃ」と思って書換えて、実行したとたんにエラーが出て、しばらく考えこんでから「おお、そうか」と気づき、その瞬間に三日前にも同じことをやったことを思い出したりするのである(-_-X)。そんなわけで、電算稼業を三年も続けると、「三日前の自分は他人だ」というのを骨の隋まで思い知り、執拗かつ入念にコメントを書き文書を残すようになるのである。
とはいえ、「こんなもん書いといたって読みゃあしねーよ」という思いはつねにつきまとっている。しかし、「とりあえず書いておかねば、読むか読まんか分からんではないか」と言っておこう。実際問題として、書いてあるとけっこう読む……というか必要になることが多いことが分かるのである。なぜそれに気づかんかというと、「忘れているから」なのだな(^_^;)。同じことを何度も何度もやっていながら、前に同じことをやったことを忘れている。「そういえば、以前もこんなことが」という感覚を「既視感(デジャ・ヴ)」かと思って統合失調症を疑う前に物忘れを疑ったほうがいい。
それにもう一つ。自分が必要なことはしばしば他人も必要なのである。そんなわけで他人に質問される。そのときに一度「書く」ことで概念を整理しておくと、説明しやすさが格段に違う。うまく説明できないと「説明がよくわからん。やって見せてくれ」とか言われて仕事を押しつけられたりもするし、顧客にうまく説明できると信頼されるというメリットもあり、「説明のうまさ」というのは鍛えておくにしくはない。
あるいは、「説明を聞いたが忘れたのでまた教えてくれ」とか「説明を聞いたがよくわからん」とか「説明通りやったがうまくいかない」とかいって煩わされることがある。そういうとき、説明を書いた紙を渡して「あとは自分で考えろ」という手が使える。
あとは、電子化しておく必然性である。
まあ、おれの場合すでにして手書きよりもキーボードを打つほうが楽というのがあるのだが、それ以前に「字ヘタなので読めん」という問題がある奴がうちのスタッフにはいる(悪かったな by KILROY)。でまあ、なんといっても電子化しておけば再利用・再加工が楽というのがある。たとえば検索が楽だ。テキストの量が一定以上の量になるとこのメリットというのはかなりのもので、『アスペルガーの館の掲示板』に うちのスタッフが書いた文章だけでもけっこう調べ物の役に立ったりする。
そんなわけで、
すかさずメモる(とりあえず記録する)→整理してノートする(記述する。あるいは「書く」)→電子化する→蓄積する→体系化する→発表する→共有する
という一連の流れの一部として、「とりあえず記録しておくこと」「電子化し、蓄積すること」の重要性を強調しておきたい。
(Mr.Moto)