[PR]当たる!無料占いで仕事鑑定:大人気!無料占い『スピリチュアルの館』
相州大山雑学小辞典
*概要
<交通>
>小田急電鉄伊勢原駅まで
新宿から:小田急電鉄伊勢原駅まで急行で一時間
横浜から:相模鉄道で海老名まで四十分、小田急電鉄下り線に乗換、伊勢原まで十分
>小田急電鉄伊勢原駅から登山口まで
北口のバス停「大山ケーブル駅」行き終点までバス三十分
>登山口から下社まで
バス停「大山ケーブル駅」よりケーブル追分駅まで徒歩十五分−ケーブル六分−徒歩三分
または徒歩一時間
>下社から奥の院まで
徒歩一時間三十分
* 東名高速バス利用「伊勢原バス停」下車、乗換えて「大山ケーブル駅」までバス十五分。
*東名高速厚木ICまたは秦野・中井ICより国道二四六号を利用して三十分。
* 祭礼暦
<月例祭>
毎月二十八日 不動尊縁日
<例祭>
一月一日 歳旦祭・元旦奉幣祭
正月七日間は無病息災を祈る茅輪が設けられる。
また、元日には氏子青年有志の集まりである阿夫利睦会による恒例の餅搗が行われ、参拝者に振舞われる。
三日 元始祭
出初め式にあたる出入職による消防訓練等あり。
七日 引目神事
七日午前零時を期して行われる、怨霊退散を祈願する神事。
鳴弦神事という神降しの弦打神事、鳴鏑神事という鏑矢を射る怨霊祓いの神事から成るが、阿夫利神社ではこれに、鉾向けの神事を加えて行なっている。
これは大山咋命の別名が鳴鏑神とも呼ばれるところから。
同七日 筒粥神事
いわゆる「粥占」で、七日朝、神域の山林から伐採した薪で粥を煮き、粥棒に付いた米粒の数でその年の作柄の豊凶を占うもの。占いの結果は関東一円の農家に届けられる。
二月三日 節分会
十五日 涅槃佛供養(茶湯寺)
二十一日 紀元節祭
二十八日 五檀護摩(大山寺)
大山豆腐まつり
三月中旬 大山登山マラソン
五月五日 神事能(阿夫利神社)
下旬 酒まつり
六月八日 権田直助翁慰霊祭
大山中興の祖といわれる国学者・権田直助翁の慰霊祭。
六月三十日 大祓祭
茅の輪潜りの神事あり。
七月十日 刺叉乗り奉納
江戸消防彩粋会による刺叉乗りの奉納。なお『江戸消防彩粋会』は昭和六十年七月に江戸消防記念会の顧問であり専修大学の理事長兼総長であった森口忠造氏が名付親になって祈念会の会員有志によって結成され、江戸火消の伝統と気風の保存と継承を目的として設立された。
七月二十日 夏山開扉祭
開山お花講による開扉祭。
七月二十七日 例大祭
八月十七日 閉扉祭
八月十八日 摂社二重社祭
八月二十七日 御輿渡御
八月二十八日 秋季例大祭
秋季例大祭の日には鈴川の向こう側にある社務所において祭典終了後の午前十一時ごろから神楽が奉奏される。
八月二十九日 御輿還御
九月二十日 摂社追分社祭
十月初旬 火祭薪能(阿夫利神社社務局)
十一月上旬 大山菊祭り
十二月冬至 星祭り(大山寺)
三十一日 大祓祭
<その他の行事>
六月上旬 田舞奉納神事
町方社務所境内。
十月上旬 火祭薪能奉納
元禄十六年以来行われている奉納能。戦後長らく中断されていたが、昭和五十五年以来復活。かつては五派一流の合同形式で行なわれていたが、現在は観世流の能・大蔵流の狂言が奉納されている。
大山阿夫利神社社務局境内にて開催。ただし雨天の場合は伊勢原市民文化会館大ホール。
入場観覧申込方法については、伊勢原市役所内・伊勢原市観光協会(電話(0463)94−4711内線212)まで。
大山天狗講酒祭
明治二十七年から春の大祭の初日に行われている、酒造業者の祭り。
大山裸詣り
江戸の彫物師「彫勇」を中心として明治三十五年に結成された彫物同好会「江戸彫勇会(えどちょうゆうかい)」が八月に行なっている参詣行事。定宿は豆腐坂を上がってすぐの宿坊「おゝすみ山荘」(先導師・佐藤大住)。
<観光>
愛宕滝 あたごだき
愛宕滝バス停から橋を渡って向かいにある滝。滝の上部に段が付けられたり、滝壷もコンクリートで護岸されるなど、整備されている。
阿夫利神社社務局 あふりじんじゃしゃむきょく
旧八大坊別当職屋敷跡庭園。晴天の場合、大山薪能はここで行われる。
加寿美橋を渡り、かすみ通りを上がって途中の右側。
〒259−11 神奈川県伊勢原市大山。電話(0463)95−2006。
追分神社 おいわけじんじゃ
祭神は八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)(→思兼命)。大山は雨乞い・雨止み祈願の山として知られているが、思兼命は「天気予報の神様」として気象神社に祀られているという神様である。
ケーブル追分駅から上り徒歩三分。下社までの登り道の男坂・女坂分岐点にあたる。
登りでは社殿を右に見る女坂は大山不動・ケーブル不動前駅への無明橋分岐点を経て下社に至る。ここより上の女坂沿いには「弘法水」「子育て地蔵」「爪切地蔵」「逆さ菩提樹」「無明橋」「潮音堂」「眼形石」の女坂七不思議ほか石佛や句碑が点在する。
男坂は社殿向かって右の石段を上がる。自然林の中を抜けて下社へ。
下社までは男坂・女坂とも徒歩四十分。
大山不動 おおやまふどう
正式名称は雨降山大山寺(うごうさんたいさんじ)。とはいえ当のお寺さんでは「あぶりさんおおやまでら」と呼んでいる。本堂は総欅造で国宝指定。
天平時代の勝宝七年(七五五年)、奈良東大寺の別当・良弁の開創で、かつては別当八大坊をはじめ十八ヶ坊を擁した古刹である。良弁は東大寺を建立した工匠・手中明王太郎を伴って入山して佛堂を創建したという。その後聖武天皇より勅願寺の宣下があり国家鎮護の道場とされたというのだが、これは「公認」されたというだけで、手厚い保護を受けたといったようなことはなかったらしい。八七九年に大火が起こり佛像・僧房のほとんどが焼失。弁真僧正は一時子易に一道山地蔵院を立ててこれに通ったが、五年後の八八四年、安然僧正によりようやく再興されて再び山上に戻った。
大山は原始神道の一部である山岳信仰の山、特に雨乞い・雨止みの山として農民に崇められていたため、鎌倉時代になって鎌倉の地方領主である北条氏の保護を受けられるようになり、にわかに隆盛を見た。当時奉られていたのは倶梨伽羅竜王(八大竜王、別名大山竜神)である。その後修験道の祖である役小角(えんのおずぬ)信仰との関連から、不動信仰の寺となった。
本尊は鋳鉄造不動明王座像で、コンガラ・セイタカの二護法童子像と共に鎌倉時代の文永年間に大山中興の祖・大楽寺の願行上人によって納められたもので、本殿裏の拝殿に安置されている。戦前は国宝、現在は国の重要文化財。
現在「不動参り」といえば成田山新勝寺のほうが有名であるが、江戸時代はもっぱら大山不動のことを指し、高幡不動・成田不動と共に関東の三大不動の一つとされた。
なお、大山不動は「関東札所巡り三十三か所の第一番とされる」というのは間違い。三十三ヶ所巡りは観音様の霊場である。これは『利根川志』に引用されている『相馬日記』に「そもそも坂東に不動明王の古霊場三所あり。相模国大住郡の大山寺と武蔵国多摩郡の高幡寺と、この新勝寺となり。なかんづく今三所の中に、こよなう参詣人多かるは、この成田の霊場」とあるように、「板東三不動の一番」という位置づけであったらしい。なお、成田山に参詣者が多い理由は……もちろん参詣が楽だからです。「成田山」は単なる山号だけれども、「大山」は文字通りの「山」です。
神佛分離令(→神佛分離令)以前は現在の雨夫利神社の下社の位置に奥の院を拝む拝殿があり、ここより奥が女人禁制であった。現在の大山不動は江戸時代に「前不動」と呼ばれていた不動堂である。なお、この地は来迎院(→茶湯寺(ちゃとうでら))の境内であった。
正面の石段両脇に並んでいるのは護法童子の像。「雲折々 人を休むる 月見かな」の芭蕉句碑も建つ。
ケーブル追分駅から女坂を徒歩二十分、ケーブル不動前駅から徒歩三分。
〒259−1107 伊勢原市大山七二四
電話(0463)95−201 FAX(0463)95−6848。
奥の院 おくのいん
別名を奥社。大山の山頂周辺をいい、以下の三つを兼ねている。
大雷神社(おおいかづちじんじゃ)。祭神は大雷神(おおいかづちのかみ)で、御神体は雨降石。
雨降山大山寺・奥の院。本尊は倶梨伽羅竜王。
雨夫利神社・奥の院。祭神は石尊(せきそん)大権現。
山頂には神木の雨降木(あめふりのき)があって、晴天の日にも絶えることなく雫が垂れてくるという伝承がある。
下社 しもしゃ
ケーブル終点、大山の中腹(標高約六八〇メートル)にある阿夫利神社下社のこと。崇神天皇のころ(前九七頃?)創建と伝えられる延喜式内社(→官幣社)。祭神は大山祇神(おおやまずみのかみ)、雷神(いかづちのかみ)、タカオカミノ神(註)、鳥石楠船神(とりのいわくすぶねのかみ)。なお鳥石楠船神は航海の神。
註)「タカオカミ」の「たか」は「高」、「おかみ」は「雨かんむりに口三つ」(レイまたはリョウ。JISの補助漢字に入っている)の下に龍の字を書く。ユニコード規格には「雨かんむりに龍」は入っているものの、「おかみ」の字は入っていない。日本の国情に合わせた文字コード規格が必要だとつくづく思う。
ちなみに‘櫺’は「れんじ」と読み、窓につけた格子のことで、木偏に‘靈’とも書く。‘靈’は‘霊’の異体字。
鳥居 とりい
東海道から続く参道には三つの鳥居が存在した。一ノ鳥居は現存しないが平塚市にあった。二ノ鳥居は伊勢原町にあるというが、所在は不明。三ノ鳥居は門前町である大山町(一九五四年に中郡伊勢原町に編入、現在は伊勢原市大山)にあり、バス停「鳥居前」のちょっと上にあるのがそれである。
門前町 もんぜんまち
通例、バス終点・バス停「大山ケーブル駅」から大山ケーブル追分駅までの区間をいう。いわゆる『独楽参道』。
先導師(→用語)の家や土産物屋・茶店などが並ぶ商店街。名物料理は豆腐料理。土産物としては伽羅蕗(→伽羅蕗)や葉唐辛子の佃煮、小田原名産の木工品や大山独楽・竹蛇などがある。
途中の石段には大山独楽が描かれた表示板による一から二十七までの表示板があり、一番がバス停「大山ケーブル駅」、二十七番が追分駅である。
良辮滝 りょうべんだき
大山寺の開祖・良辮が開いたといわれる滝。滝壷の周囲には石造の垣が巡らされ、江戸時代の風情を伝えている。
<名産物など>
大山独楽 おおやまごま
由来その他についてちゃんと調べていないので、とりあえずお店だけ紹介。
門前町、西の茶屋のちょっと上、下から見て右側に二軒。塚本みやげ店((0463)95−4391)、その下にえびすや土産店((0463)95−2263)。参道の登り口左側に、金子屋本店((0463)95−2030)。
伽羅蕗 きゃらぶき
大山名物として知られる佃煮。
「伽羅蕗は蕗ではなく津和蕗の佃煮である」という情報があったので調べてみると、「伽羅蕗」というのはもともと修験者が携行した保存食であるという話ではあるが、むしろ食中毒の薬で、津和蕗の茎を醤油で煮染めたものであったらしい。漢方では津和蕗の茎や葉には肉や魚による食中毒に対する解毒作用があるとされるのだけど、海沿いに自生するために山中では求めにくいため佃煮にして携行したということらしい。これに対して蕗の場合は蕗の薹(ふきのとう。漢方では「蜂斗菜(ほうとさい)」)に去痰・鎮咳・苦味健胃の作用があるものの茎は薬として服用されることがなく、澤の近くなどにふつうに自生しているためわざわざ保存食にする必要もないのである。おそらく明治以降、食品としての蕗の佃煮を売るときに商品名として「伽羅蕗」の名を冠したものと思われる。今後「伽羅蕗」の名の起源を研究する必要があろう(またこうやって仕事が増えるんだから……)。
閑話休題。似たような例としては、「しめじ」の名でヒラタケやブナシメジが売られている例がある。特に最近は「ほんしめじ」の名でブナシメジが売られていることがあるからなおさらややこしい。確かにブナシメジはホンシメジ(ダイコクシメジ)と同じキシメジ科のキノコだが、ホンシメジが「占地」の名の通り地面に生えるのに対してブナシメジはブナの木に生えるし、味や歯ごたえもホンシメジとはかなり違う。消費者としては、こういう区別はなるべく正確を期してもらいたいと思う。
津和蕗は日本の温かい海岸付近に自生する蕗に似たキク科の常緑多年草。乾燥や潮風に強く、日本庭園にもよく植えられており、斑入りなどの園芸品種もある。葉は蕗に似て柄が長く、厚くて若葉は綿毛に包まれているが成葉は艶があり、このため「津和蕗」ではなく「艶蕗」だと思っている人がたまにいる。十月から十一月にかけて二尺ほどの花茎を出し、菊に似た黄色い花をつける。若い葉柄は煮物などにして食用。葉は炙って湿布とし、腫れ物や湿疹に用いる。繁殖は春の株分けによる。
現在の伽羅蕗は、以下のような製法による。五月末から六月にかけて山蕗を採取し、茎の部分を塩蔵。その後根の部分を切捨てて適宜の長さに切揃え、醤油で炒煮する。
ちなみに「山蕗」は日本の在来種で二倍体、したがって種で増える場合もある。これに対して栽培種である水蕗や赤蕗は三倍体で種ができず、全体に柔らかで茎が長く大型。葉の部分にはビタミンA・B・Cを含むが茎には僅かにビタミンCを含むのみ。したがって野菜として食べる場合は葉の部分を棄ててしまってはもったいない。茎の部分は重曹または灰汁で下茹でして皮を剥き、葉の部分も刻んでからさっと下茹で。油揚などと共に甘辛く煮るか、油揚・豆腐・茸などと味噌で煮込んで汁とする。
なお、大山で伽羅蕗を製造・販売しているのは独楽参道の『大津屋きゃらぶき本舗』(電話95−2704)、愛宕滝バス停近くの『遠州屋本店』(電話(0463)95−2272)、社務局近くの旧参道にある『米屋』(電話(0463)95−2048。「よねや」ではなく「こめや」。昔はお米屋さんだったそうな)の三軒。
竹蛇 たけへび
江戸時代から大山の名物土産物として知られている玩具で、竹製の蛇。
昭和五十一年に民俗学者の川口謙二氏がNHKテレビでこの竹蛇を紹介し、その際に「来年は巳年であるから、記念切手になればいい」などと語ったところ、翌五十二年に本当に記念切手として発売されたというエピソードがある(『日本の神様 読み解き事典』より)。
茶湯寺 ちゃとうでら
別名を来迎院、あるいは涅槃寺という。
バス停・「大山ケーブル駅」から徒歩六分。バス停からケーブル追分駅に続く門前町、「西の茶屋」の手前の「ちゃとうでら」の表示のある石碑の下の路地を進行方向左、橋を渡る。
門前町裏を流れる大山川の渓谷ぞいにあり、寝釈迦を祀る。死者を百一日の茶湯で供養する「百一日参り」で有名。供養にゆくと必ず似た人に遭えるとか。徳本(とくごう)上人塔や参道の石佛が見どころ。拝観料が必要。
豆腐 とうふ
豆腐が大山の名物になった由来というのがいまひとつ判然としないため、現在調査中。ただし、「旨いから名物になった」要素以外に「名物だから旨い」という要素があるのは確か。豆腐の味はほとんどそのまま材料である大豆の味だから、原材料の大豆に金をかければそれだけ味が上がる。すなわち、「旨ければ高く、高ければ旨い」という経験則がある。さらに豆腐は新鮮であればあるほど美味い。つまるところ、「名物だから高い金を出しても食べる」「地域の名産物だから作ってから食べられるまでの時間が短いので新鮮」という二つの要素が重なって、「大山で食べる豆腐はうまい」ということになる。だから都内でパック売りしている「大山豆腐」は思ったほど旨くないがそれでも値段が高いぶん原料はちゃんとしたものを使っているので決して味は悪くなく、「大山豆腐」の名は関東の高級豆腐のブランド名としてそれなりに機能しているといえる。
なお、下社の向かって左側には豆腐塚があり、良辮滝の左側には豆腐坂がある。
とにかくお店を二軒紹介。老舗の小出豆腐店(愛宕橋すぐ上。電話95−2046)と、新しいけど品揃えの豊富な大山綜合食品(かすみ通り。電話95−2036)。
<参詣スポット>
赤坂山王神社 あかさかさんのうじんじゃ
“赤坂の山王さん”として親しまれている、東京都千代田区永田町二丁目にある日枝(ひえ)神社のこと。徳川家康が江戸城に入府する際に天台宗の大僧正・天海の勧めで徳川家の産土神(うぶすながみ)とされた。主祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)。
この社は旧官幣大社(→官幣社)である。天長七年(八三〇)、勅命により円仁が武蔵国入間郡仙波の星野山無量寺再興の折に滋賀県大津市坂本の日吉(ひえ)神社を勧請、文明年間(一四六九〜一四八六)に太田道灌が江戸城内に奉遷し、承応三年(一六五四)に焼失したのち現在地に再建され、江戸第一の大社となった。
秋葉神社 あきばじんじゃ
別名、秋葉山本宮。祭神は火之迦具土之神。
所在地は〒437−06、静岡県周智郡春野町領家。電話番号(05398)5−0005。JR浜松駅からバスで終点下車すぐ。
江戸七富士詣り えどしちふじまいり
富士山の山開きの日である旧暦・六月一日に、以下の七つの神社の富士塚すべてに詣でると、富士山に登ったのと同じ御利益があるとされた。
沢田・浅間神社
所在地 東京都大田区大森西二丁目二番地
交通 京浜急行・平和島駅西側約五百メートル 環七沿い
(JR大森駅北側約九百メートル)
羽田・羽田神社
所在地 東京都大田区本羽田三丁目九番地
交通 京浜急行・大鳥居駅南約五百メートル
産業道路を南に
バス・大師橋停留所下車
大田区内唯一といわれる富士塚があり、一見の価値あり。
六郷・八幡神社
所在地 東京都大田区南六郷二丁目三番地
交通 京浜急行・雑色駅南東約四百メートル
非常に分りにくい場所にある小さな神社。雑色駅から東に向かって第一京浜(国道十五号線)を渡り、右に行くと交番があるのでその手前を左折。養護学校を右に見て直進すると、最初の四辻の向こう側の路地の奥に墓地が見える。その路地を入って突当りから時計回りに墓地を迂回し、真反対を左折すると前方右側にある。
川崎・女体神社
所在地 神奈川県川崎市幸区幸町一丁目
交通 京急川崎駅北西約三百メートル
(JR川崎駅北側約三百メートル)
かつては東海道脇の稲毛神社(川崎区宮元町七丁目)であったが、稲毛神社が昭和二十年の空襲で焼失して以来女体神社に詣でられるようになり、稲毛神社が再建された現在に至ってもそれが続いている。
鶴見・鶴見神社
所在地 神奈川県川崎市鶴見区鶴見中央一丁目
交通 京急川崎駅北東約三百メートル
(JR鶴見駅北東側約三百メートル)
鶴見市場・熊野神社
所在地 神奈川県川崎市鶴見区市場東中町
交通 京急鶴見市場駅北側すぐ
横浜・浅間神社
神奈川県横浜市西区浅間町三丁目
JR横浜駅西側約六百メートル/新横浜通り浅間下交差点西側
気象神社 きしょうじんじゃ
昭和十三年(一九三八)四月十日、現在の杉並区高円寺北四丁目に陸軍気象部が創設された。その後気象部長・諫式鹿夫大佐の発案により、気象神社の設立が提案された。
昭和十九年(一九四四)四月十日、陸軍気象部の創立記念日に因んで、気象神社はその構内に創建された。建物は伊勢の外宮に倣った素木の神明造であった。
この初代気象神社は昭和二十年(一九四五)四月十三日に空襲を受けて炎上し、その後松下清夫中尉(東大名誉教授)によって再建されたが終戦、陸軍気象部の施設・人員は中央気象台(現在の気象庁)に移管され、昭和二十二年(一九四七)四月三十日に気象庁気象研究所となり、昭和五十五年(一九八〇)六月につくば市長峰に移転、現在に至っている。
気象神社はGHQの神道指令(『国家神道・神社神道に対する政府の補償・支援・保全・監督および弘布の廃止に関する件』)により撤去される予定であったが、当局の調査漏れのために気象神社は撤去されずに乗っていた。そこで文部省内の連合軍宗教調査局に申請し、ニコラス主任(陸軍少佐)の厚意により同じ高円寺町にある氷川神社に遷宮することが許可された。そこで昭和二十三年(一九四八)九月十八日の氷川神社例祭に際し、宮司・山本実氏によって気象神社の遷宮祭が斎行され、現在に至っている。
(原見敬二、“海の気象”、Vol.41、No.4)
氷川神社 東京都杉並区高円寺南四丁目四十四番十九号
電話(03)3314−4147・4148・4149 FAX(03)3315−0034
道了尊 どうりゅうそん
曹洞宗・大雄山最乗寺の道了権現を指す。正しくは「どうりょうそん」だが、江戸では「大工の頭領」が「でぇくのとうりゅう」と訛るのと同じく、「どうりゅうそん」となる。越前・永平寺、鶴見・総持寺に次いで曹洞宗では全国第三位の格式を誇るお寺で、末寺は四千余に及ぶ。本尊は釈迦牟尼佛で、道了尊は境内・伽藍の守護神。
応永元年(一三九四)、了庵慧明(えみょう)禅師の創建。縁起によれば、伽藍を建てるときに弟子の道了という怪力の持主の力を借りたという。寺が完成すると道了は「永久にこの寺を守護するであろう」と言い残し、天狗に変じて昇天したという。
落語『小間物屋政談』には、小田原の宿が道了尊詣りの参拝客でごった返す様子が描かれている(『圓生古典落語 2』より)。
〒250−01、神奈川県南足柄市大雄町。電話番号(0464)74−3121。伊豆箱根鉄道大雄山線終点の大雄山駅下車してすぐ。
日本三大弁天 にほんさんだいべんてん
大山・雨夫利神社には大山祇命(おおやまずみのみこと)が祀られている。
大山祇命は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)の子で伊邪那岐命の子である須佐之男命(すさのをのみこと)の兄にあたる。本地垂迹説によれば「須佐之男命(すさのをのみこと)の娘である宗像三神はすなわち弁才天である」とされるから、日本三大弁天は大山祇の神の姪にあたると考えることができる。
ここから大山詣りの帰途に日本三大弁天の一つである江ノ島の弁才天に詣でる習慣ができたとする説がある。
近江国・琵琶湖竹生島(ちくぶじま)、都久夫須麻(つくぶすま)神社の弁才天。
安芸国・厳島(いつくしま)、厳島神社の弁才天。
相模国・江ノ島、江ノ島神社の裸弁天と八臂(はっぴ)弁才天。
以上三つの神社の弁才天を合わせて日本三大弁天と唱えることがある。
通例、この日本三大弁天に陸前国・金華山の弁天様を加え、さらに大和国・天川(てんかわ)の天河(てんかわ)神社の天河弁才天か駿河国・富士山頂の弁才天のどちらかを加えて五大弁天とする。
ちなみに富士山頂の浅間神社には祀られている木花咲哉姫命(このはなのさくやひめのみこと。大山祇命の娘にあたる)は本地垂迹説によってしばしば弁才天と同一視されることがあり、富士山頂に弁才天が祀られているのもこの理由による。
と、いうわけで、内田康夫の浅見光彦シリーズの代表作・『天河伝説殺人事件』に「天河神社は天河弁才天といって、日本三大弁天の第一位だそうです」とあるのは、間違い。
「天河神社は天河弁才天といって、日本三大弁天の第一位だそうです」
秀美は言った。浅見への感謝が、そういう説明だけでもしなければ申し訳ないという気持ちにさせたようだ。
「天河神社には、ふつうは下市口から行きます。バスで一時間ちょっと、大峰山の登山口のほうへ入ったところです」
「大峰山っていうと、山伏修行で有名な、あの大峰山ですか?」
「そうです」
「日本三大弁天様の第一位っていうと、二番目は鎌倉の弁天様ですか?」
「いえ……」
秀美は思わず、笑いを含んだような声を出したが、すぐに、そういう場合ではないと反省して、硬い口調に戻った。
「二番目は厳島、三番目は竹生島です」
「ああ、そうなの」
浅見は思わぬところで恥をかいた。弁天様といえば、鎌倉の銭洗い弁天しか思い浮かばないというのも、情けない。
― 内田康夫 『天河伝説殺人事件』
日向薬師 ひなたやくし
正式名称は真言宗・日向霊山寺・宝城坊。日向霊山寺十二坊の一つで、日本三大薬師の一つ。
霊亀二年(七一六)、僧・行基の開創による古刹。本堂は万治三年(一六六〇)の再建。本尊は鉈彫りの薬師三尊像で、他に十二神将像や四天王像など、二十点にのぼる国の重要文化財がある。普段は宝物庫に収められているが、正月三が日と四月十五日の大祭には拝観ができる。
所在地は〒259−11、神奈川県伊勢原市日向。電話番号(0463)95−1416。
<神佛諸天 Who’s who>
秋葉権現 あきはごんげん
秋葉権現は「あきばごんげん」とも読み、本来の名称は秋葉山三尺坊大権現。遠江國(とうとうみのくに)秋葉、すなわち現在の静岡県西部の周智郡と磐田郡との境にある秋葉山(八六六メートル)に奉られる神(→秋葉神社)で、修験者あるいは天狗の姿で描かれる。
もとは信濃國の人で、出家して修行ののち阿闍梨となり、越後國古志郡蔵王堂の十二坊のひとつ三尺坊の主となった、いわゆる修験者である。不動三昧の法を修し、七日満願の朝焼香の火焔の中に「鳥の如く両翼が生じ、左右の手に剣と索を持つ相」を感得し、自身も飛行神通自在となったと伝えられる。
秋葉権現の御利益は一に剣難除・二に水難除・三に火難除といわれる。江戸庶民はもっぱら火防の神として信仰し隆盛をみたが、徳川幕府は貞享二年(一六八五)に禁令を発してこれを抑えた(→秋葉原)。
役行者 えんのぎょうじゃ
「行者」と呼ばれるように修験者である。呪術を以って鬼神を使役したという伝説がある。またの名を役君(えんのきみ)・役公(えんのきみ)・役優婆塞(えんのうばそく。なお、「優婆塞」とは在家の修行者を指す)・小角仙人(しょうかくせんにん)などとも呼ばれる。
白髭で高下駄を履き錫杖を持った姿で描かれ、日本各地の峯々を経巡ったところから足の病気の守護神や道中の守護神としても祀られる。役行者についての説話は『日本霊異記』『本朝神仙伝』『今昔物語』『扶桑略記』などに豊富に書かれている。
本名は役小角(えんのおづぬ)。一説に役はエダチと読み、小角はヲヅミと訓すべきであるという人もある。大和国南葛城郡茅原の出身で賀茂氏の末裔といわれ、希代の陰陽師といわれる阿倍睛明(九二一〜一〇〇五)は、役行者の子孫とされる賀茂忠行・保憲父子の弟子である。
生年は不祥だが、一般には舒明天皇六年(六三四)正月と信じられている。三十二歳で大和国葛木(葛城)山に登り、金銅の孔雀明王の像を岩窟内に安置し、草衣木食の修行を続けること三十年余、ついに呪術を感得したと伝えられる。
役行者は日本三大薬師の一つとされる日向薬師(伊勢原市坊中)宝城坊や八菅神社(江戸時代は七社権現といった。所在地は厚木市八菅)などにその像が祀られている。
八菅神社のある八菅山は天台修験の道場であり、真言修験の道場である大山と並んで相模の修験道場の双璧である。ともに丹沢山地を中心にして廻峯行が行われていた。
大山咋命 おおやまくいのみこと
別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)、また鳴鏑神(なりかぶらのかみ)。賀茂氏神系の神々のうちの一柱で、須佐之男命の孫とされる神様である。
大山祇神 おおやまずみのかみ
大山祇神はその名の通り「山に住む神」であるが、別名「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも呼ばれる海神でもある。瀬戸内海・大三島の大山祇神社は瀬戸内海の船舶の安全を司る航海の神ということになっており、『伊予風土記』逸文によれば仁徳天皇のころに百済から渡来した神であると書かれている。嚮導神(きょうどうしん。道に先立ち導く神)である猿田彦の神との関連が窺われる。
鬼 おに
鬼には中国渡来の「鬼」と日本固有の「オニ」の二種類がある。
中国の「鬼」は亡者あるいは幽霊・お化け・妖怪の類であり、地獄の鬼や餓鬼がこれにあたる。日本神話にも「雷神(いかづちのかみ)」として登場する(→雷神)。
これに対して日本の「オニ」は「カミ」に対応するもので、あまりに強い力を持つために人間に恐れられ、人外の地に自ら隠れたり、あるいは人間によって追いやられた者である。つまり人間と能力自体は同じなのだがその力が何倍何十倍とあるのが「オニ」、人間にはない特殊な能力を持つのが「カミ」であり、「オニ」が性能の差なら「カミ」は機能の差といえる。「オニ」の例でいうと、たとえば巨石が積み重なって人が雨宿りできるような洞を作っているものが「鬼の岩屋」で巨石の上面が人の手が削ったように平らになっているのが「鬼の俎」、といった類である。
なお、現代でもこうした「カミ」と「オニ」の区別は生きており、「神業」は「人間の能力とは思えない技術」、「鬼のように暑い」といえば「あまりに暑いので『暑い』という感覚を逸脱し、もはや暑いんだかなんだか分らなくなりかけている」といった意味になる。
また鬼はその能力に相応しく異形の者であり、ここから異形のもの、巨大なもの、強大なもの、頑丈なものを一般に「オニ」というようになった。オニヒトデ・オニカサゴ・オニオコゼ・オニヤンマ・オニバスなどがその例である。
これ以外に、能などには「妄執に囚われ、死してのち鬼となった」という、中国の「鬼」と日本の「オニ」の中間のタイプも登場する(『安達原』の鬼婆など)。これは肉体的な能力が甚だしいというより、執念がもの凄いのである。これも現代に伝わって、「仕事の鬼」などという言葉になっている。
思兼命 おもいかねのみこと
『旧事本紀』によれば、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)。『古事記』には「思金命」、『日本書紀』には「思兼命」とある。「思」は思慮、「兼」は兼持つの意である。アマテラスの岩戸隠れや天孫降臨の際の神集いに登場し、神々の諮問に答えた神。
氷川神社(東京都杉並区高円寺四丁目四十四番地)の境内にある気象神社の祭神は、この思兼命。毎年六月一日の気象記念日には例祭が行なわれる。
護法童子 ごほうどうじ
不動明王の従者。コンガラ・セイタカの二護法童子が有名。
コンガラ・セイタカの名の元になったサンスクリット語の「キンカラ」「チェータカ」はどちらも「従者」「奴隷」の意。不動明王自身が大日如来の使役する明王とされるため童子の姿で表わされ、童子の従者が大人の姿では雰囲気が出ないということで、童形で表わされる。
天狗 てんぐ
日本固有の魔物で、のちに神格化された。そのため「外法様(げほうさま)」とも呼ばれる。これに対して中国の「天狗」は彗星・流星を指し、日本では「天(あま)つ狗(きつね)」と呼ばれて区別されている。
日本の天狗は大きく分けて二つの系統が存在する。
一つは山岳信仰に基づく、原始神道の「カミ」としての天狗で、山の中で起きた怪異現象はだいたい天狗かオニの仕業とされた(→鬼)。たとえば風のない晴れた日に突風が吹いて屋根が吹き飛ばされたりするダウンバースト現象は昔なら「天狗倒し」と呼ばれたであろうし、竜巻で吹きあげられた小石が空から降ってくればこれは「天狗の礫(つぶて)」である。
もう一つは佛教から来た天狗で、行を修め法力を身につけた僧侶が慢心して傲岸不遜の行いに及ぶと、佛法者であるから地獄に堕ちることもなく佛心もないため昇天することもなく、「天狗道」という魔道に堕ちて魔物となり、佛道修行の妨げをなすとされる。「天狗になる」という言葉はここから生まれたらしい。
天狗はこのようにもともとは魔物であったが、修験道が成立する過程で「偉い行者様にちょっかいを出して逆に懲らしめられ、改心して佛道の修行者を導くようになった」という伝説が生まれ、修験者に道を示し教え導く神とされるようになった。なお福音書にも「荒れ野で断食中のイエスの前にサタンが現れ、イエスを誘惑しようとして追っぱらわれる」というエピソードがあるが、聖徳太子の時代には「景教」としてネストリウス派キリスト教が日本に伝えられていたし、福音書に記されたイエスの説話の中にも佛教説話の焼直しが含まれているので、元ネタは一緒のような気がする。佛教・キリスト教・修験道それぞれの成立時期からみて、おそらく本来はヒンドゥー教の説話であり、これがシルクロードを東に伝わって日本の天狗伝説になり、西に伝わってサタンの伝説になったと思われる。
天狗はふつう修験者の姿で表わされる。「背に羽を持ち飛行自在」といわれるが、中国の「天狗」伝説の影響か、日本神話に登場する金色の鳶などの影響であるらしい。小泉八雲の『怪談』には、「鳶の姿でいるところを子供に捕まって虐められているところを通りすがりの僧に助けられて恩返しをする」という浦島太郎の亀のような天狗が出てくる(『天狗の話』)。赤ら貌で高い鼻を持つものを「大天狗」あるいは単に「天狗」といい、神道で山岳神・嚮導神(道案内の神)とされる猿田彦命(さるたひこのみこと)と習合して生まれたものといわれる。また青面で鳶鼻すなわち嘴を持つものを「小天狗」あるいは「烏天狗」といい、ヒンドゥー教のガルーダと習合して生まれたものとされている。
なお、大天狗が持っている扇は鷹の羽で作った八手の葉のような形の扇だが、これは翼を象徴したもの。修験者も扇を持っているが、それは「蒲葵扇(ほきせん)」といってビンロウの葉を編み孔雀の羽と合わせたもので、毒蛇の象徴であるといわれる。
修験道場である山岳寺院には天狗の伝説が多く伝えられており、大山石尊権現は天狗であるという俗言があり、大雄山最乗寺の道了権現も最乗寺建立に力のあった天狗であると寺の縁起にある。また、法師が天狗となるという言伝えがあり、鞍馬山の僧正坊・愛宕山の太郎坊・比叡山の次郎坊・彦山の豊前坊・伯耆大山の伯耆坊・秋葉山の三尺坊などの伝説が残っている。このうち愛宕山太郎坊は能・『車僧(くるまぞう)』(世阿弥・作)や『善界(ぜかい)』に登場する。
雷神 らいじん
雷を神格化したもの。「はたたがみ」とも呼び、別雷神(わけいかづちのかみ)や大雷神(おおいかづちのかみ)など同一。御手洗団子(みたらしだんご)で有名な賀茂三社の神である賀茂明神は、賀茂神社の縁起によれば雷神である別雷神であるという。能の『賀茂』の題材はこの賀茂神社の縁起から取られている。
なお、日本神話では「雷神(いかづちのかみ)」というと地獄に堕ちた亡者あるいは餓鬼のことであり、イザナギが黄泉の国を訪れて妻イザナミに会う場面に登場する。
<大山詣り>
大山詣り おおやままいり
江戸時代中期・後期に流行した、大山への参詣。
江戸時代の慶長十年(一六〇五)、徳川家康は大山寺を関東の高野山、徳川氏の祈願所として位置づけ、大山を清僧の場所と定めて修験者や神職を山麓に下がらせた。これら修験者や神職は御師(おし)となり、山麓に宿坊を開き、門前町を成した。御師は江戸各地からの登拝者に宿や食事を提供し、大山寺参拝の際の寺との取次をするなどの面倒をみた。
また、蓑毛にも規模は小さいながら宿坊街があるが、こちらは伊豆・駿河からの登拝口である。
現在も続く江戸庶民の大衆行事としての大山詣りは江戸時代の慶長十四年(一六〇九)に徳川家康が社領を寄進して社殿の改築を行なったことから始まり、中期以降に完成されたものである。関東各地の信者は大山講を作り、大山に詣でた。
江戸時代は旧暦の六月二十七日から七月の十七日までが参詣できる期間と定められていて、六月の二十六日から晦日(みそか)までが初山、七月の一日から七日までを七日堂(なのかどう)、八日から十三日が間(あい)の山、七月の十四日から十七日までを盆山(ぼんやま)といった。江戸時代に「大山詣り」といえばこの「盆山」の参詣を指したが、現在ではお盆休みに当たるため海外旅行や遠距離旅行に流れてしまい、かえって参詣者は少ない。いっそこの期間に四日くらいかけて日本橋から徒歩で大山詣りとかやったら、逆に参詣者が増えたりなんかして……
『新版 圓生古典落語2』の『唐茄子屋』の解説によれば「江戸時代中期・後期は白衣(びゃくえ)振鈴(しんれい)(註)という巡礼姿で詣でた」ということであるが、一般に半被に鉢巻、先頭に何々講と大書した幟と梵天・納太刀を立てて練りこんできたらしい。なお、江戸時代に書かれた『金草履』二編に描かれているところによれば講の幟に普通の旅姿であり、他の史料には巡礼姿の参拝者と普通の旅姿の参拝者の両方が一枚の絵に納まっているものもあるところから、おそらくは巡礼姿の参詣者は富士詣り・道了尊詣りを経て大山に詣でた後であると思われる。
初登拝として三・五・七歳の男児が大山へ向かい、あるいは元服の意味もこめて十五歳の男子が大山参詣を行なった。
註)振鈴というのは密教の修法のひとつで、諸尊を勧請し歓喜を表わすために鈴を振り鳴らすこと。
大山講 おおやまこう
大山詣りの講。何かの指導を仰ぐ目的をもつ集まりを講といい、講員を講中という。また事業などの共通の目的を持つ同志の集まりを社といい、構成員を社中という(註)。伊勢詣りや大山詣りなどの神佛の参詣は「信者の集まり」である「講」が「奉拝」「奉幣」という目的を持って参詣を行なうわけであるから「社」としての性格もあり、合わせて「講社」と呼ぶことが多い。大山詣りの場合、指導者にあたるのが神職である「御師(→御師)」、講のとりまとめを行なう世話人の頭が「講元」である。
江戸時代には関東に四千ほどの大山講があり、講中五十万人を数えたという。大山講などの参詣講の場合「信者イコール参詣者」という原則があるから、参詣は講中全員参加が建前である。仮に講中の六割が参詣したとしても三十万人が参拝期間の二十日間に押寄せたわけで、かつては参道から境内から参拝者でごった返していたというのも頷ける。
註)祭りで御輿を担ぐ集まりなどが、「社」の代表。あるいは坂本竜馬が設立した日本最初の会社が「亀山社中」である。
ちなみに同好者による自然発生的な集まりを連(阿波踊りの連が有名)といい、連の仲間のことを「連中」という。その他、「衆」は各員がそれぞれ同等の立場の集まり(太閤秀吉に仕えた堺の御伽衆が有名)で、「会」は主に場所や日時が定まった集まり、「組」は役割を持ち上下関係のある組織(町火消の「め組」など)である。
納太刀 おさめだち
石尊神に奉納する太刀。源頼朝が武運長久を祈願して佩刀を奉納したのが始まりで、開運・厄除けを祈願する。本来は真刀であるが、一般には木太刀。短いもので七八寸、長いものになると人の背丈を越えるものもあった。
通例、木太刀(剣先を上、刃先を右にとる)に『奉納大山石尊大権現』と大きく書き、その下に半分位の字で両方へ割って『大天狗』『小天狗』と書き、さらに下へまた大きく『所願成就』と書いてから、続けて『郷(ごうの)吉宏(よしひろ)』と銘を入れる。また、倶利伽羅不動を摸した、倶利伽羅竜王(大蛇)が剣に巻きついてこれを呑もうとしている図柄を描いたものもある。
この太刀を水垢離のときにも携行し、そのあとこれを担いで石尊社(山頂)に詣で、神前に奉納し、代りにそれまでに神前に納められていた他人の木太刀を持って帰り守護とした。
納め太刀の習慣は昭和二年に小田急線が開通して以来鉄道による参詣が普及するようになってから「客車に持ちこむと邪魔になる」という理由から急速に衰えたが、スキーやサーフボードの車内持込が一般に認められている現在、復活してもおかしくない。
大山街道 おおやまかいどう
江戸時代には江戸と大山を結ぶ複数の「大山街道」と呼ばれる街道が存在し、現在の国道二四六号線もその名残である。
渋谷・宮益坂から三軒茶屋、溝の口、長津田を通って厚木に向かう道筋などが代表で、三軒茶屋はその名の通り大山街道沿いの三軒の茶屋から興った町である。
東海道を下る場合、日本橋を六ツ前に発ち、品川・川崎・神奈川(現、横浜市神奈川区)・程ヶ谷(現、保土ヶ谷)と過ぎて、戸塚泊りが一日目。この間十里十八丁(四一キロメートル強)。
翌日は藤沢の遊行寺に参詣し、四谷の立場(たてば)から右へ大山道へ入って伊勢原を過ぎ、麓の子安村まで七里(二八・八キロメートル弱)。ここより次第に坂道となって前不動まで二十八丁。ここから拝殿(現在の下社)まで十八丁(仮名垣魯文『滑稽富士詣』九篇、万延元年(一八六〇)より)。拝殿から奥の院までは二十八丁。
富士詣りや道了尊詣りの帰途など東海道を上る場合、秦野から蓑毛を経て大山へ続く街道がある。
御師 おし
神職の一つで、神社と参詣者の仲立ちをし、武士と同じく帯刀を許されていた。
参詣者の宿泊所となる宿坊を与かり、毎年暮れになると裃姿の礼装で供に挟箱をかつがせて諸国の講を廻って暦などを配って歩いた。
御師は「商売」ではないので宿坊の宿泊費は建前上無料ということになっており、費用は「初穂料」という名目で支払われた。これは当時の医者がやはり商売ではなく、建前上治療費は無料ということになっていて薬一貼あたりいくらの「薬礼」という形で支払われていたのと同様である。
御師は明治以降「先導師」と呼ばれるようになった。
片参り かたまいり
富士山山頂にある浅間神社に祀られている木花咲哉姫命(このはなのさくやひめのみこと)は、大山雨夫利神社下社に祀られている神様・大山祇命(おおやまずみのみこと)の娘である。そこで江戸からの富士参詣の帰途には大山への参詣が常とされ、これを省くことは片参りと呼ばれて忌まれた。
水垢離 みずごり
神佛に祈願するため、水によって心身の穢れを祓うこと。沐浴。泉水や井戸水を頭からかぶることもあれば、海や川に入って水浴することもある。大山詣りの前には、向こう両国の垢離場(→垢離場)において一七日(いちひちにち/いちなぬか)の水垢離を取るのが通例であった(→千垢離)。なお、ユダヤ教の場合は砂漠地帯で水が少ないせいか、灰をかぶることで清めを行なう。
水垢離に似たものに「潅頂」というものがあり、こちらは祝福の意味の行為。佛教では甘茶をかけ、ユダヤ教・キリスト教では香油を用いる。サッカーの優勝セレモニーで行われるシャンパン・シャワー、日本のプロ野球で優勝チームが行なうビール合戦、結婚式のライス・シャワーなどはこれである。
滝行は厳密にいうと水垢離の一種ではなく、臨死体験を求める修行であり、再生の意味がある。ユダヤ教にも「バプテスマ」(「洗礼」と訳されるが、意味としては「水に溺れる」という意味)という儀式があり、昔は水の中に放りこんだらしい。
私の卒業した高校には、学園祭の打上げで委員長ほかの役員をプールに叩き落とすとか、教育実習生の最後の授業のときに生徒が寄ってたかってバケツの水を頭からぶっかけるという習慣があった。米空軍にも、退官するパイロットのラスト・フライトが終わると同僚がバケツで水をぶっかける習慣がある。欧米の結婚式では、新郎新婦をプールに放りこむということも行われる。これらは「古い役割からの解放と、新しい人生への出発」を意味し、潅頂礼と滝行の両方の意味を具えていそうに思う。また死者に対して行われる「湯灌」も、同じではないだろうか。
垢離茶屋 こりぢゃや
垢離場(→垢離場)に水垢離(→水垢離)をとりにきた人々を対象に営業された、更衣室・手荷物預かり所の役目も持つ茶店。つまりは現代でいう「海の家」のようなものである。造作も丸太を組んで葦簾(よしず)を張りまわしただけの、海の家と変わらないような粗末なものだったらしい。
垢離場 こりば
水垢離(→水垢離)を行なう場所。江戸で垢離場といえば両国橋(→両国橋)向こう両国(→向こう両国)側、東詰から隅田川沿いに下流へ百メートルほど下ったところにあった垢離場であり、周辺には垢離茶屋(→垢離茶屋)が並んでいた。
千垢離 せんごり
水垢離の一法。
下帯も着けぬ真裸になり、音頭を取る一人が千本の藁蘂(これを緡(さし)という)を持ち、別のある者は納太刀を持って、首まで水に浸かって一斉に祭文を唱える。
「南無帰命頂礼、慙愧懺悔(さんげさんげ)、六根罪障、大峰八大(「おしめにはったい」と訛る)、金剛童子、大山大聖不動明王、石尊大権現、大天狗(だいてんぐ)小天狗(しょうてんぐ)」と大声で祈念する毎に藁蘂を一筋抜いて流し、これがうまく流れてゆくと祈願が石尊大権現に届いたとして喜んだ。これを千本まで数取りするところから千垢離という。
緡 さし
1)本来の意味は「釣糸」(=釣緡(ちょうみん))。「垂緡(すいみん)」といえば「釣糸を垂れること」。
2)数取りに使った紐状のもの(=算緡(さんみん))。千垢離(→千垢離)の際に用いる‘緡’はこれで、ふつうは藁蘂(わらしべ)を用いる
3)銭を一定数だけ纏めたり、携行するために銭に通す縒紐(=銭緡(せんみん)。日本語では銭縒(ぜにさし))。大川橋蔵演ずる銭形平次こと神田明神下の平次親分が投銭を通して腰から提げているのがこれ。
4)(3)から転じて、銭縒に差した一纏めの穴明銭(=縒銭(さしぜに))。通常は百文。
<江戸風俗一般>
秋葉原 あきはばら
電気街のある通称・秋葉原(千代田区外神田)はかつての江戸の火除地で、「秋葉原」の名称は火防(ひぶせ)の神である秋葉権現から取られている。現在この地はアキハバラと呼ばれているが、昔はアキバハラあるいはアキバッパラと呼ばれていた。意外なことに秋葉原という地名は千代田区にはなく、昭和通りと蔵前橋通りの角の「台東区・秋葉原」が、現在町名として残っている「秋葉原」である。
両國 りょうごく
現在「両国」といえば墨田区両国のことだが、かつて「両國」とは「両國橋界隈」の意味であった(→両國橋)。したがって、墨田区両国(旧称「向こう両國」(→向こう両國))と中央区東日本橋(旧称「廣小路」(→東日本橋))を合わせて「両國」と呼んだ。
両國橋 りょうごくばし
隅田川にかかる橋で、武蔵国と下総国の国境であったことから両國橋の名がある。したがって厳密にいえば富岡八幡宮の祭りは「江戸の祭り」には入らないため、「江戸三大祭り」というものは存在しないことになる。現在でもこの両國橋までが「都心」ということになっているらしく、「靖国通り」は両國橋を境に「京葉道路」と名前が変わる。
向こう両國 むこうりょうごく
両國橋東詰界隈、現在の墨田区両国の旧称。俗に東両國ともいった(→両國橋)。
向こう両國には回向院という寺があり、かつて相撲の本場所はこの回向院の境内で奉納相撲として行われた。なお、現在の「両国国技館」の所在地は墨田区両国の北隣にあたる墨田区横網である。ついでながらJR総武線の両国駅も同じく墨田区横網にある。
向こう両國は「江戸の外」ということで幕府の風紀取締も江戸市中に比べてやかましくなく、芝居小屋や見世物小屋が並ぶ歓楽街として栄えた。
東日本橋 ひがしにほんばし
両国橋西詰界隈の町名。旧称「廣小路(ひろこうじ)」、あるいは俗に「西両国」と呼ばれた。
東日本橋の周辺は北側が台東区「柳橋」、そこから反時計回りに中央区「日本橋馬喰町」・「日本橋横山町」・「日本橋大伝馬町」・「日本橋久松町」・「日本橋浜町」と江戸時代を彷彿とさせる地名が並んでいるのに対し、かつての「廣小路」は「東日本橋」という味も素気もない名前になっている。「西両国」とすると混乱を招きそうなので、「日本橋廣小路」とでも改名したらどうだろうか。
<落語・『大山詣り』>
落語・『大山詣り』 らくご・おおやままいり
江戸落語の一つ。
『大山詣り』は伊勢詣りを題材にとった上方落語『百人坊主』を元にして作られたものであるため、肝腎の大山詣りの風俗はほとんど描かれていない。六代目・三遊亭圓生はこの点に不満を持ったらしく、枕の部分で大山詣りについて詳しく説明している。
また上方落語は「落し噺」、江戸落語は「人情噺」と言われているのだが、『大山詣り』は江戸落語でありながら、元が上方落語であるため「落し噺」の要素が強い。
女郎 じょろう
落語・『大山詣り』の枕には藤沢で女郎を買って三日流連(いつづけ)しちゃった」といった描写があるが、これは飯盛女と呼ばれた遊女であって宿場女郎ではない。東海道で宿場女郎が許されていたのはフランキー堺主演の映画『幕末太陽伝』の原案となった落語・『居残り佐平治』の舞台・品川宿のみである。
一両 いちりょう
落語『大山詣り』には、悶着を起こした者に一両の罰金を科す場面がある。
江戸時代の貨幣はもともと地金と同じ役割を持っていた。したがって金貨・銀貨・銅貨の価値はそれぞれの相場によって変動し、その交換比もまちまちであった。
江戸時代は現代よりもむしろ進んだキャッシュレス時代で、ほとんどの商品は十五日〆・月末〆の掛売であった。そのため日常的に使われる貨幣は銅一匁に相当する一文銭くらいで、金貨・銀貨は給金として入ってくるとその日のうちにつけ払いに回されて、右から左へと流れてゆくだけである。だから江戸に住んでいれば「宵越しの銭は持たない」生活が実際にできたらしい。
金の場合、“両”は金四匁八分。“両”の四分の一が“分”で金一匁二分。“分”の四分の一が“朱”。通貨としては江戸初期には大判(十両)、小判(一両)、一分金があった(その後、元禄十年(一六九七)には二朱金が鋳造された)。
銀の場合は海鼠形で四十三匁〜四十四匁ほどの丁銀と、量目合せのための粒状の豆板銀が流通していた。
銭一貫は本来なら一千文のはずであるが、九百六十文で取引されていたと書いてある資料があった。これはおそらく松平定信が「天保銭」という百文銭を発行したせいである。天保銭は純粋な銅貨ではなく、銀が入っている。ところがその銀の量が幕府の財政立直しのために意図的に減らしてあったため、額面は百文であったが実際には九十六文で取引された。以来「ちょっと足りない」人を「天保銭」と呼ぶようになった。「昼行灯」(ぼんやりしている)とか「螢光燈」(反応が遅い)とか「瞬間湯沸器」(すぐ熱くなる)とか、こういう遠回しな悪口というのは、実状にそぐわなくなってもなかなか死語にならない。
なお、江戸末期の金一両は銭七貫ほど。銭一貫で宿賃なら約四泊分、酒なら約四升分にほぼ相当する。
坊主頭 ぼうずあたま
落語『大山詣り』には、「喧嘩をした者は頭を丸める」という罰を科す場面がある。
百姓・町民は勝手に頭を丸めることはできず、頭を丸める場合は名主や大家の書付が必要であった。ちなみに関所手形も名主や大家が発行するが、百姓・町民の戸籍に相当する人別は檀那寺の管轄で、身分証明書に相当する往来切手は檀那寺が発行する。
僧侶以外で頭を丸めているのは座頭か医者(医者は坊主頭が原則だが、上方では総髪にして髷を結うことも多かった)で、座頭は玉杖(丸い玉が頭についた五尺一寸の杖。なお検校は撞木杖)を持ち、医者は帯刀が許されていたので脇差を差している。そのため、百姓・町人が坊主頭でいればすぐに見分けがつき、詮議を受けることになる。
したがって、当時頭を丸めるというのは大変なことだったのである。
駕籠 かご
六代目・圓生の『大山詣り』には主人公の「熊」が神奈川宿から江戸まで通し駕籠を頼み、両方の垂(たれ)を下ろして講中の面々のいる茶屋の前を通りすぎてゆく場面があるが、これは間違い。
「犬公方」と呼ばれた将軍綱吉公は、「病人・老人・女性以外の町人は籠に乗ってはならない」という「禁令」を出した。これが実は「禁令にあらざる禁令」で、それ以前は武士以外の人間が駕籠に乗ることは許可されていなかったのである。駕籠を利用できたのは武士以外だと僧侶や医者だけで、その時にも原則として両方の垂れは揚げておかないといけなかった。それに、市中で用いられる町駕籠と違い、街道を走る宿駕籠(宿場駕籠の略。「雲助駕籠」ともいった)には、そもそも垂がない。「熊」という男は風呂場の場面にある通り喧嘩っ早く威勢のいい大男で、そんなのが旅姿で宿駕籠を飛ばしていれば街道のどこかで岡っ引き(「岡」というくらいだから正規の役人ではなく、十手を許されていたのも同心に直接使われていたごく一部の者である。大抵はちんぴらに毛が生えたような者が褒美目当てに悪人を探していた)にでも捕まりそうなものである。
とすれば、一行は江ノ島の弁天参りに回り、本人は一人だけ街道を戻ってきたというのがおそらく正解。
烏帽子島 えぼししま
『新版 圓生古典落語3』には「これを烏帽子岩と演る人がいますが、これは間違いです。烏帽子島は東京湾ですが、烏帽子岩は相模湾にありますから、金沢八景とは無関係なわけで……」とある。
そこで地図(『神奈川県都市地図 横浜・川崎区分』、昭文社、エアリアマップ ニューエストS2、1999、ISBN4−398−65026−1)で確認すると、確かに茅ヶ崎市東海岸南の沖合千二百メートルほどの位置に「姥島(烏帽子岩)」の表記がある。サザン・オールスターズの歌にもたしか出てきたよな。
……ところが、である。烏帽子島というのがどこにあるのか分らない。金沢八景の近くで米が浜の近くというのだが、このあたりは現在埋立てが進んでしまい、ひょっとしたら消滅してしまったのかもしれない。
そんなわけでインターネットの検索サービスを使って「烏帽子島」を検索してみたところ、安藤広重の『武陽金沢八景』の中に夏島と烏帽子島が描かれているというのがわかりました。
ついでながら、『金沢八景』というのは
・小泉夜雨(こいずみのやう)
・洲崎晴風(すざきのせいふう)
・瀬戸秋月(せとのしゅうげつ)
・乙艢帰帆(おつとものきはん)
・称名晩鐘(しょうみょうのばんしょう)
・野島夕照(のじまのゆうしょう)
・内川暮雪(うちかわのぼせつ)
の八つで、このうち「称名晩鐘」は称名寺(称名寺市民の森)として、「野島夕照」は野島公園として残っているとのこと。ところが野島公園周辺の地図を見ても「夏島」もなければ「烏帽子島」もない。なんでじゃ。
じつは追浜(おっぱま)の海岸の対岸にあったのが夏島(別名ウェブスター島)で、烏帽子島というのは海岸の端にあったのですが、大正九年に海軍の航空基地を作るときに海岸と夏島の間を埋め立てた際に撤去されてしまったのだそうです。この場所は現在日産の工場になっており、工場敷地内にはかつての烏帽子島の所在地を記した以下のような碑が建てられているそうな。
『烏帽子巖之跡
昭和二年五月 合資会社 馬渕組 建之
由来 烏帽子岩は、烏帽子島ともいわれ、追浜の砂浜が東につきる突端に存在していた。大正七年に海軍航空隊の建設に伴う飛行場造成のため切り崩され、消滅した。本碑はこれを記念して、昭和二年に建立されたものである。
当時の形状は名の如く烏帽子の形をしたもので、標高約15m、周囲約200mで、海を隔てて夏島と対していた。江戸時代には旅人や近傍の人たちは、この岩と夏島との間を海路往来していたもので、その風光明媚な自然景観は一幅の絵を見るようであったという。
このたび、旧飛行場地先を、さらに日産自動車株式会社により埋立てられたため、記念碑を本位置に移設して、その保存を図ったものである。
なを、烏帽子岩が存在していた位置は、本碑より北北東150mの処である。
昭和五十七年六月 横須賀市 日産自動車株式会社』
で、昔は六浦(むつうら)に港があり、船が港を出入りする際には夏島と烏帽子島の間を通ったのだそうです。
で、次が「米が浜」。この「米が浜」というのは建長五年(一二五八)に安房からやってきた日蓮が船で通りがかったときに時化に遭い、猿島(当時は豊島)を経てたどりついたという場所。このとき白猿が現れて米が浜を指さしたところから「猿島」の名がついたとか。ちなみに夏島をウェブスター島、猿島をペリー島と名付けたのが黒船のペリー提督一行。
そんなわけで『米が浜のお祖師さん』というのは、京浜急行の横須賀中央駅のすぐ南側にある猿海山龍本寺というお寺にある日蓮像(日家上人作、日蓮三十二歳の像)だと分かりました。やれめでたや。
<宗教>
伊勢神道 いせしんとう
伊勢神宮の外宮(げくう)の祠職を勤める渡会(わたらい)氏の度会家行(いえゆき)・度会延佳(のぶよし)らが主導した神道の一派。外宮神道・度会神道ともいう。
雨降山大山寺 うごうさんたいさんじ
雨降山大山寺は天平時代の勝宝七年(七五五)、奈良・東大寺の別当・良弁の開山と伝えられ、寺の縁起によれば良弁が鷲にさらわれてきてこの山を開いたという。その後雨降山大山寺は華厳・真言・天台の三宗兼学の道場となり、密教的要素を濃くすると同時に修験道との接近を強めてゆく。
奥の院には石尊社を、山腹には不動堂を配し、その周辺には八大坊という別当坊をはじめとする僧坊が建てられ、修験者や山伏が多く集まり住んでいた。
『東都歳時記』(註1)には、
「相州雨降山大山寺は江戸を去ること十八里、良弁僧都の開基にして真言宗高野山に属す。寺領百四十八石、別当八大坊、坊舎共に十二坊、脇坊六幹、他に大勧進御師あり(註2)。本尊不動明王、次に前不動。石尊大権現は二十八町山奥の頂にありて、脇に大天狗・小天狗の社あり。常は参詣を許さず、此月(註3)に限りて登山を許す。故に遠近より詣人群集をなし、道中宿ゝ昼夜往来絶えず、賑えること甚し。」
とある。
明治時代に明治新政府によりいわゆる神佛分離令(→神佛分離令)が発布された。この結果政府機関である神社本庁が設立されて各都道府県にはその下部組織として神社庁が置かれ、すべての神社は原則としてこの神社の管轄下に置かれた。この点では大山も同様である。しかし、大山は原始神道・神社神道・佛教・修験道が分かちがたく混淆していたため、阿夫利神社の場合は「大山阿夫利神社本庁」が独立して置かれることとなった。
註1)『新版 圓生古典落語3』の『大山詣り』解説の引用文より。明治時代に太陽暦が採用され神佛分離令(→神佛分離令)が出されているところから、原典はおそらく江戸後期のもの。したがって原典には句読点などはないはずで、この文章は現代語訳と思われる。
註2)大山寺を勧請した宿坊のことと思われる。
註3)ここでいう「此月」は旧暦の六・七月。
官幣社 かんぺいしゃ
神社の格付(社格)のひとつで、朝廷が神祇官を派遣して奉幣を行なう神社。大宝元年(七〇一)、大宝律令によって制定された。延暦十七年(七九八)には遠国の場合は朝廷に代わって国司が神祇官を派遣して奉幣を行なうようになり、官幣の神社と国幣の神社の区別が生じた。平安時代初期の法制書である『延喜式』の神名帳には官幣大社三〇四社、官幣小社四三三社、国幣大社一八八社、国幣小社三二〇七社の計四一三二社が記載されている。なお、この『延喜式』の神名帳に掲げられている神社を「延喜式内社」と呼んでいる。
修験者 しゅげんじゃ
修験道の修行者。別名を「山伏(やまぶし)」といい、兜巾(ときん)・鈴掛・金剛杖・法螺・一本歯の高下駄といった姿で表わされる。
修験道は日本古来の山岳宗教に佛教・神道・道教などが習合したもので、呪術的要素が強い。
散華文 さんげもん
「懺悔文」とも書く。
有名なところでは山を登るときの掛け声で、「六根清浄、お山は繁盛、散華散華」というのがある。丁寧にやる場合は「六根清浄、お山は繁盛、六根清浄、お山は晴天、六根清浄、登らせ給え、散華散華、散華散華」というのが一般的らしい。これはまず先頭に立つ音頭取りが「ぉーっこん、しょーじょぉ」(息んでいるため、頭の「ろ」が出ない)と発声すると、次に残り全員が「おーやまぁ、はーんじょぉ」と唱和する。ちなみに西丸震哉さんが「Look on 少女、オヤ、マア、半畳、産気産気」などいう罰当たりな替え歌を作っている。
別のパターンとしては、千垢離の際に唱える「南無帰命頂礼、さんげさんげ、六根清浄(「ろっこんさいしょう」とも)、おしめにはったい(「おしめりはったい」とも)、金剛童子、大山大聖不動明王、石尊大権現、大天狗小天狗」というのがある。
この中で「さんげさんげ」は、「慙愧懺悔」であるとも「懺悔懺悔」であるとも云われ、俗には「散華散華」であると思われている。「六根清浄」も正しくは「六根罪障」とする説が有力である。つまり「慙愧懺悔六根罪障」であれば、「六根の罪障を心から悔い改めます」という意味になるからである。これが「散華散華六根清浄」だと、いまひとつ意味不明になる。ちなみに六根とは、人間の五感を司る感覚器官に感情の源である「意」を加えた「眼耳鼻舌身意」の六つの感覚の根(入口)のことで、『般若心経』にも「無眼耳鼻舌身意・無色声香味触法(いかなる感覚器官によっても感知することができず、いかなる感覚ももたらさない)」との句がある。
「散華」について説明すると、散華とは諸佛諸天に供養するために花を撒くことで、現在でもインドをはじめヒンドゥー教文化圏では広く行なわれている。本来の意義は神佛に対する生贄の儀式(供犠)であり、「戦死」を「散華」と呼びならわすのもここから来ている。大乗佛教においては法会の一部となり、紙製の五色の蓮華の花弁を花篭に盛り、声明に合わせながら撒き散らす。
なお、「おしめにはったい」は「大峰八大」であって大山八大坊を表わすとする説のほかに、「おしめりはったい」で「お四面八大」とする説があるという。
蛇足ながら、「はったい粉」といえば小麦粉のこと。そういえば「おむつ」が「襁褓(むつき)」の略だというのは知っているけれど、「おしめ」というのは何の略なんでしょうか。
節会 せちえ
「節」は「節季」の略で、「節句」はその境目、「会」は集まりの意で、季節行事のこと。
節句としては三月三日の桃の節句、五月五日の端午の節句、七月七日の棚機(たなばた。「七夕」は本来「しちせき」と読んだ)が有名だが、これは陰陽五行説で奇数が「陽数」とされ、陽と陽が重なるめでたい日ということで節句とされている。一月一日の元旦(中国では春節という。春巻は春節に食べる「春餅」(の残り)で巻いて食べるから「春巻」)や九月九日の重陽節(菊の節句)も、この類である。
これ以外にも記念日などが「節」とされることがあり、「紀元節(現在の建国記念日)」や「天長節(明治天皇の誕生日)」などがその代表。
神佛分離令 しんぶつぶんりれい
明治元年(一八六八)、明治政府は「神佛判然の令」を下し、宗教組織としての神社と佛寺を分離しようとした。この「神佛判然の令」がいわゆる「神佛分離令」である。
江戸時代には佛寺による檀家制度が戸籍として機能していた。このため明治時代に徴兵や徴税に必要な戸籍・地籍などを政府が管理する必要上佛寺の行政機能を政府に移管する必要が生じ、佛寺の管理・監督を神社庁を通じて神社に行なわせたのである。
こうした管理体制を維持するためには、それなりの宗教上の根拠というものが求められる。そこで神道・佛教の教義の見直しが行なわれた。その結果として本地垂迹説(→本地垂迹説)に基づいて日本の神々に「権現」「菩薩」といった号を賦与する習慣が廃されたりなどした。
神佛分離令を「神道勢力と佛教勢力の支配関係の逆転の象徴」とみる向きもあるが、実のところ「従来、神社を別当寺が管理・監督していたという制度が逆になった」というだけで、神佛混淆が進んでいた多くの寺社においては明治新体制への移行は特に問題もなく進んだようである。しかし明治新政府と結びついた神道勢力と旧幕府体制と結びついていた佛教勢力の権力争いが一部に起こり、公権力を笠に着た神道勢力による佛教勢力の排除が行われた。これがいわゆる「廃佛棄釈運動」である。
廃佛棄釈運動によりかなりの量の佛教遺産が処分され、その結果多くの国宝・重要文化財級の美術品が海外に流出した。しかしこれがきっかけになって日本の佛教美術が欧米に紹介され、ヨーロッパを中心に日本美術や東洋哲学の流行を捲起こしたのもまた事実である。
神明社 しんめいしゃ
伊勢神宮を本とする末社。つまりは「お伊勢さん」である。「伊勢原」の名は神明社のひとつ伊勢原神社から取られている。
延徳元年(一四八九)、吉田兼倶は伊勢神宮から伊勢の神の御神体と神宝が空から飛来して吉田山(神楽岡)に鎮まったと主張し、新たに神明社を建てた。ここから伊勢の大神が各地に飛び移られたという信仰が生まれ、飛神明の勧請ということも一時期流行した。以来、神明社が秋葉権現や天狗信仰とも結びつくようになった。
相州大山 そうしゅうおおやま
相模国大山(さがみのくにおおやま)の略称で、神奈川県の丹沢山系にある大山(一、二四五・六メートル)のこと。『新編相模国風土記稿』の大住郡大山の条には「大山 一は雨降山と呼び、また阿部利山或は大福山・如意山等の名あり。当国諸山の中、最も高嶺なれば大山と称せるなり」とある(→大山)。
相州大山は相模湾からの海陸風により山頂にしばしば雨雲を生ずるため、雨降山(通常は「あふりさん」。「阿夫利山」「雨部利山」とも表記され、あめふりやま/あふりやま/あふりさん/あぶりさん等さまざまに呼ばれた)の名もある。雨降山にかかる雲の形は観天望気の手掛りとされた。
大山は古くから山岳信仰の対象とされていて、開山は崇神天皇の時代に溯るといわれる。また大山は相模湾沖から眺望されるため、船舶航行の山立ての目印とされて漁業や航海に関する信仰も集めていた。つまり本来は原始神道の山であり、山頂にある大雷神社はその時代の名残である。
雨降山大山寺の開創以降、鎌倉時代から戦国時代にかけて佛教的要素を強め、修験道の完成と並行して修験道の山として信仰されるようになり、その間鎌倉期の武将から後北条氏に至るまで各領主の崇拝を集めた。
徳川家康の江戸幕府開府の際に大山は佛教の山とされたが、当時の佛教は本地垂迹説に基づく神道も含んだものであり、特に大山は江戸幕府という勢力と密接に結びついていたため、佛教といっても現代の国家神道にかなり近い性格を帯びたものであった。
その後、江戸時代の大衆化によって本来の原始神道の要素を多く含んだ神社神道に回帰。さらに明治時代の廃佛棄釈運動により国家神道が中心となり、太平洋戦争の敗戦によって国家神道が否定されて以降、徐々に江戸時代にあったような原始神道と神社神道を折衷したような神道の山に戻りつつある。
大山の歴史は日本の宗教史、である。
本地垂迹説 ほんじすいじゃくせつ
「神は、佛が衆生を救済するために別の姿をとって現れたものである」とする思想。佛本神従説(ぶっぽんしんじゅうせつ)ともいう。本地垂迹説に基づく神道の代表例は、平安時代以降天台宗によって唱えられた山王一実神道である。
平安時代末期の推古天皇十二年(六〇四)、聖徳太子が十七条憲法の第二条で佛教を国教を定めた。この結果、寺院(僧侶)−神社(神官)−山伏(修験者)の順位が確立し、寺院が神社を統括することになった。なお、大神社(大神宮)を統括する寺院を神宮寺、その他の神社を統括する寺院を別当と呼ぶ。
本地垂迹説は、この佛教寺院と神社との関係を合理的に説明するために生まれたものであるといえる。すなわち、佛が本来の姿(本地)であり、神は佛が姿形を変えて降りくだったもの(垂迹)とするのである。たとえば弁才天(佛教守護の天部の神)を本地、記紀神話に登場する宗像三女神のうちの一柱である市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)を垂迹とするなどがそれである。
なお、この本地垂迹説以外の説に基づく神道としては、「神と佛は本質的に同じものである」とする真言宗の両部神道や、本地垂迹説とは逆に神が本で佛が従とする伊勢神道や吉田神道(→吉田神道)がある。
豊臣秀吉は吉田神道に則って葬儀が行なわれたため豊国大明神となり、徳川家康は山王一実神道に従って葬儀が行なわれたため東照大権現となった。この徳川家康の謚号をめぐる吉田神道出身の僧・梵舜と天台宗の大僧正・天海との主導権争いは、日本の歴史上有名な逸話。これによって天海は日本の宗教界の頂点に立ち、江戸幕府の祈祷所とされた相州大山は日本の宗教の中心とされたのである。
山伏 やまぶし
→修験者
吉田神道 よしだしんとう
応仁の乱の頃、吉田兼倶(よしだ・かねよし)によって組織化された神道の一派。伊勢神宮の正統神道である伊勢神道から見れば、いわば異端である。神道を顕露教と隠幽教に分け、一般の神社神道を佛教の顕教にあたる顕露教、吉田神道を密教にあたる隠幽教とした。こうした呪術性を前面に押出すことによって、その後吉田神道は支配体制に接近してゆくのである。
ほとんど関係がないが、随筆集『徒然草』で有名な兼好(けんこう)法師こと卜部兼好(うらべ・かねよし)は、吉田神道を興した卜部吉田家の傍家の出身である。
<芸術・芸能>
大山能 おおやまのう
大山能は元禄年間に師職各家毎にシテ・ワキ・太鼓・大鼓・小鼓・笛・謡・狂言のいずれか一役を伝習させて神佛の宝前に奉納したのをその発祥とする。
能のシテ方には五つの流派があり、江戸初期にはそれぞれの流派によって囃方・狂言方の流派が決まっていたのだが、大山能が誕生した頃になると演能者の不足もあってこうした決まりはあまり守られなくなっており、伝わるところによれば大山能では各流派の「いいとこ取り」が行われたそうである。したがって大山能は、能楽の各流派がおのおのもっとも得意とするパートを受持つ形で参加する一大ジャム・セッションとなった。
この場合の問題点は大山能が奉納能であるところから常設の舞台というものが存在せず、通し稽古を含むリハーサルを行なうことができなかったことである。結局リハーサルはすべて「シテ・ワキ・ツレなどの舞方と地謡方は謡、囃子方は口唱(→口唱)」という形で行われたために、音合わせこそ済んではいるものの演出面ではぶっつけ本番、演能者にも当日にどんな舞台になるか予想がつかなかったという恐ろしいことになっていたらしい。大山能はモダンジャズより実に二百年以上先行していたのである。
戦後長らく中断されていたが、昭和五十五年以来復活。かつては五派一流の合同形式で行なわれていたが、現在は観世流の能・大蔵流の狂言が奉納されている。
神楽 かぐら
本来は字義の通り「神様を楽しませるもの」で、神に奉じられる芸能全般をいう。したがって雅楽だろうが相撲だろうが、田楽だろうが猿楽だろうが能楽だろうが、すべて神楽といえなくもない。現代では普通、神楽舞か曲芸をいう。別名は太神楽(だいかぐら)、あるいは太太神楽(だいだいかぐら)。
大山で行われる神楽舞は明治十一年に奈良・春日大社から伝えられた倭舞(やまとまい)・巫女舞(みこまい)の系統に属する。
倭舞は十歳から十五歳の童男の舞であり、青摺衣(あおずりごろも)・巻纓冠(まきえいかん)・石帯・佩劔の扮装、採物は柳で、四人立の『志都(しず)歌』、『梅枝(うめがえ)』、『真榊(まさかき)』、『宮人(みやひと)』三曲、『山跡(やまと)』、『淵も瀬も』計八曲と、一人舞で宮中御神楽の『人長舞』に似た『六位舞』三曲がある。
巫女舞は六人の童女(わらわめ)の舞で、白の単衣錦・千早・朱の袴・下げ髪・前花の装束に採物は鈴、曲は四人舞の『若宮』『ひとふた』『珍しな』『千代まで』『宮人』『色かえぬ』『君が代』の計七曲と、水干・立烏帽子の扮装に小劔を佩く『白拍子』二曲が伝えられている。
これらはいずれも県指定の無形民俗文化財。
(仲井幸二郎・西角井正大(にしつのいまさひろ)・三角治雄編、『民俗芸能辞典』、1981)
なお、曲芸のほうの太神楽としては「お染ブラザーズ」こと海老一染太郎・染之助の太神楽が有名であるが、他にも軽業(逆立ち・宙返り・曲乗りなど)・独楽回し・曲取り(ジャグリング)・礫投げなどいろいろと種類がある。芸を行なう「太夫」と口上を述べる「才蔵」の二人組のスタイルも、すべての太神楽に共通しているものではない。
なお、神楽は「神楽殿」と呼ばれる高床式の舞台で行われるのが常である。そこで下が柱だけで素通しの高床式建築様式を「お神楽」といい、拘置所(死刑囚が身柄を拘束されるのは「刑」ではないため、刑務所ではない)では絞首台のことを「神楽殿」と呼ぶ。
狂言 きょうげん
狂言にはいわゆる狂言と間狂言(あいきょうげん)の二種類がある。
能には一番目物(神能)から五番目物(修羅能あるいは切能)までの分類があり、一日かけて一番目から五番目まで上演するのが本来の形である。しかし、これではあまりにも長い(実際、一日がかりである)ため、三番目と四番目の間に中休みの形で笑劇が入る。これがいわゆる狂言である。現在は簡略化され、能・仕舞および狂言・能の三部構成が多いが、これでも優に三時間はかかるため、狂言は息抜きとして欠かせない。
これに対し、ひとつの演目の中で、対話の形で挿入される設定やストーリーの説明が間狂言である。
ちなみに「狂言自殺」の語源は前者、「狂言回し」の語源は後者である。
口唱 くちずさみ
邦楽において楽譜の代りに用いられた、メロディを文字で表わす方法。別名を唱歌(しょうが)という。打楽器である小鼓などは「チ・プ・タ・ポ」くらいで間に合うが、笛などだとかなり細かい規則があり、その解析はなかなか困難である。
たとえば能の『序の舞』の笛のメロディは、
「ヲヒャライ ホウホウヒ ヲヒャライ ヒウヤ
ヒウルイ ヒョイウリ オヒャライ ホウホウヒ
ヲヒャライ ホウホウヒ ヲヒャライ ヒウヤ
ヒウルイ ヒョイウリ オヒャライ ホウホウヒ
ヲヒャ オヒヤリ ヒウヤラリ ラウラウリ ヒ ヒ ヒ」
となる。
錦絵 にしきえ
鈴木春信(すずき・はるのぶ)以降作成された多色刷り色彩版画のことを錦絵という。当時、春信と同じ町内に平賀源内が住んでおり、ともに版元の蔦屋と縁があったため、錦絵の技法の開発者は平賀源内であろう、と云われている。
大山を描いた錦絵は多数あり、神奈川県立歴史博物館にも歌川貞秀『相模國大隈郡大山寺雨降神社真景』(安政五年(一八五八))、歌川貞秀『良辨瀧夜詣』(文政末期)、歌川国芳『相模州大住郡雨降大山全図』(嘉永年頃)、歌川国芳『石尊詣青雲棧道』(元治元年(一八六四)、無款)、歌川国芳『大山良辨瀧』(天保末期)、葛飾北斎『諸国瀧廻り 相州大山ろうべんの瀧』などが収蔵されている。
能 のう
日本の代表的な古典芸能の一つ。
能と歌舞伎の関係は、クラシック・バレエとロマンティック・バレエの関係に似ている。
ます、能はだれでも知っているストーリーを様式化して表現する。したがって原典である日本の古典を知らないとただ退屈なだけで、ほぼ確実に爆睡する。『源氏物語』『平家物語』『源平盛衰記』くらいは押さえておかないとつらいものがあり、同じ番組を五回十回と観てなかば飽きかけたあたりで逆に違いが分ってきてだんだん面白くなってくるのは古典の常である。
能の構成はほとんど一緒で、見所は内容よりも表現であり、ストーリーが分りきったネタをどう演出するかが見所になり、その意味でポルノや怪獣映画に近いものがある。ロマン主義的な歌舞伎とは異なって結末が悲劇的なものはほとんどなく、大団円はきっちり納まるべきところに納まるようになっているため、安心して見ていられるのも能の特徴である。これが歌舞伎だと、時事ネタ(ただし当時の)が中心で演出は写実的かつ説明的、もっぱらストーリー展開の面白さで勝負する。したがって歌舞伎を題材にした浮世絵が現代のマンガやアニメの源流であるというのは、歴史的必然である。そしてロマン主義芸術の常として、主人公の死、それも破滅的な死で終わる話が多い。
こう比較してみると「能は古典の教養を要求されるうえに、抽象的で退屈」と思われかねない。ところが「演出で勝負する」という以上、観客が「うわっ!」と思うような派手な演出もあるわけで、その点で油断はできないのである。それも歌舞伎のように「仕掛け」で見せるのではなく、「技巧」で見せるのが能の特徴である。『土蜘蛛』の「千筋の糸を吐きかけ吐きかけ……」の場面などはその例である。
能は江戸中期に武士以外の者が演ずることを幕府が禁止したために、現在あまり一般に普及していない。もっと流行ってもいいと思う。ただ救いがあるのは最近は若い人が熱心に能を観ていることで、御年配の方は数こそ多いもののもっぱら謡をやっている人であり、過半数は舞台ではなく謡本を見ている。
代表的な能の曲名は以下の通り。
特別扱いのもの
『翁』
一番目物(脇能・神能)
『嵐山』、『岩船』、『絵馬(『斎宮絵馬』)』、『老松』、『賀茂』、『高砂』、『竹生島』、『鶴亀』、
『養老』
二番目物(修羅能)
『敦盛』、『箙(『箙の梅』)』、『清経』、『実盛(『篠原』『篠原実盛』)』、『忠度(『薩摩守』)』、
『田村』、『通盛』、『経正』、『定家』、『巴』、『朝長』、『屋島』、『頼政』
三番目物(髷物・女能)
『井筒』、『采女』、『江口』、『姨捨(おばすて)』、『大原御幸(おはらごこう)』、
『杜若(もと五番目物)』、『源氏供養(『紫式部』)』、『胡蝶』、『千手』、『草子洗小町』、
『東北(とうぼく)』、『野宮(ののみや)』、『羽衣』、『半蔀』、『松風』、『雪』、『遊行柳』、
『熊野』、『楊貴妃』、『吉野天人』
四番目物(雑能)
『葵上』、『阿漕』、『芦刈』、『安宅』、『綾鼓』、『蟻通』、『浮舟』、『雨月』、『歌占』、『善知鳥』、
『雲林院』、『烏帽子折』、『女郎花(おみなめし)』、『景清』、『花月』、『葛城』、
『鉄輪(かなわ、古名『貴布禰』)』、『通小町(『四位ノ少将』)』、『邯鄲』、『菊慈童』、『砧』、
『恋重荷』、『小袖曽我』、『西行桜』、『桜川』、『七騎落』、『自然居士』、
『俊寛(『俊寛僧都』『鬼界島』)』、『正尊(しょうぞん)』、『隅田川』、『蝉丸』、『卒塔婆小町』、
『龍田』、『玉鬘』、『天鼓』、『道成寺』、『唐船(とうせん)』、『仲光』、『橋弁慶』、『鉢木』、
『花筐(はながたみ)』、『班女』、『雲雀山』、『百万』、『富士太鼓』、『藤戸』、『二人静』、
『放下僧』、『巻絹』、『松虫』、『三井寺』、『三輪』、『望月』、『求塚』、『盛久』、『夜討曾我』、
『弱法師』、『籠太鼓(ろうだいこ)』
五番目物(切能・鬼能)
『安達原』、『海士』、『一角仙人』、『鵜飼』、『大江山』、『春日龍神(『明恵上人』)』、
『国栖(くず)』、『熊坂』、『鞍馬天狗』、『車僧』、『玄象(げんじょう)』、『項羽』、『小鍛冶』、
『小督(こごう)』、『鷺』、『石橋』、『舎利』、『招君』、『猩々』、『善界(ぜかい)』、『殺生石』、
『泰山府君(たいさんぶくん/たいさんもく)』、『土蜘蛛』、『融(『塩釜』)』、『鵺』、『野守』、
『船弁慶』、『紅葉狩』、『山姥』
なお、『阿漕』・『善知鳥』・『鵜飼』を三卑賎、『安宅』の勧進帳・『正尊』の起請文・『木曽』の願書を三読物、『実盛』・『朝長』・『頼政』を三修羅、『盛久』『通盛』『実盛』を三盛、『田村』の坂上田村麻呂、『屋島』の源義経、『箙』の梶原源太を三勝修羅と称する。
能は他の芸術にも影響を与え、『安宅』は歌舞伎の『勧進帳』、『一角仙人』は歌舞伎十八番の『鳴神』となった。また『隅田川』は英国の作曲家ブリテンによって『カーリュー・リヴァー』というオペラになったが、「『カーリュー・リヴァー』のレコードをかけると雨が降る」という「呪いのレコード」伝説が岡山天文台に伝わっている。
<人物>
太田道灌 おおたどうかん
……調査中です。ごめんなさい。
「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」の句で有名(別に本人が詠んだわけじゃないけど)な武将。「文武両道の鑑」と言われてはいるものの、この歌にまつわるエピソードは「本人がこの歌を知らなかったために恥をかいた」というものであるから、やっぱり武人である。強すぎたために主君に恐れられて討たれたという不遇の人で、そのため楠木正成あたりと並んで日本の中間管理職に根強い人気がある。旧都庁前には椎茸みたいな笠を被ったこの人の銅像があった。
「七重八重花は咲けども山吹の……って、知らねぇか?」「知らねぇ」「お前、歌道に蒙いな」「門が暗ぇから、提灯借りにきた」というのは落語『道灌』の下げ。
天海僧正 てんかいそうじょう
慈眼大師とも呼ばれる天台宗の僧で、家康以下の徳川三代に仕えて江戸幕府の基礎づくりに大きく寄与した、「黒衣の宰相」である。
三百年生きたという伝説があり、あるいはその正体は明智光秀であったとする俗説もある。が、個人的には「天海僧正の正体は、織田信長である」という説を支持したい。信長は確かに「反・佛教勢力」の代表ともいうべき人物であったが、宗教的素養はかなりのものであったことが判っている。逆説的ではあるけれど、『第六天の魔王』を自ら名のり、佛敵を自認していたことからもそれは窺える。信長は堺に一種の「宗教団地」を作ろうとさえしていてイエズス会系キリスト教宣教師にも理解を示したが、イエズス会系宣教師は「信長を頂点とする権力者をすべてキリスト教に改宗させ、ローマ法皇庁を中心とするキリスト教支配体制の一部として組込み、国内の非キリスト教勢力を根絶する」ということを始めてしまった。当時の宣教師は植民地主義の尖兵としての役割を担っていたから、ある意味でこれは当然である。これが信長の逆鱗に触れ、キリスト教に対する徹底的な弾圧を招いた。
戦乱の時代を過ぎ、太平の世の中に長期安定政権を樹立するには宗教を政権のうちに融合する、つまり「宗教を飼い慣らす」ことが必要だと信長は考えていた。ところが信長が行なってきた「全国の有力宗教勢力の制圧」の結果として信長は「宗教弾圧者」とみられており、自分が生きている間は宗教勢力との和解はありえず、平和的な長期安定政権も望めないと信長は感じていた。
「天下統一後の大平の世の中には、自分の居場所はない」と悟った信長は明智光秀に天下を譲るべく、光秀に命じて自分を討たせて「信長の時代」に幕を引こうと考えた。ところがそうすると今度は光秀が主君を剋した「逆賊」となり、武家社会においては指導者たり得ないことになる。そこで光秀は「戦乱の英雄としての信長」に殉じることを望み、あらゆる証拠を焼きはらうという手段で「歴史上の人物としての信長」を抹殺したのち、逆賊として討たれた。このとき信長は光秀の説得に応じて生きのびた。手引をしたのは本因坊算砂こと日海である。僧・天海としてかつての家臣である家康の前に現れ、既存の宗教勢力との融和という、「宗教的天下統一」への道を開いたのである……といったような話なのだが、誰か小説に仕立ててみませんか。
<宗教全般>
盂蘭盆 うらぼん (佛教)
サンスクリット語のウランバナ(「倒懸」と訳し、「逆さに吊るされる苦しみ」の意)の漢音訳で、七月十五日の自恣(じし)(→自恣)の日に行われる、先祖供養の節会(せちえ)(→節会)である「盂蘭盆会(うらぼんえ)」の略。「精霊会(しょうりょうえ)」「魂(たま)祭り」ともいい、墓参を行ない、祖先の霊に飲食物を捧げ、棚経をあげる。単に「お盆」ともいうため、ときどきお盆に裏と表があると勘違いする人がでる。
佛弟子のひとり目連が、餓鬼となって餓え苦しむ亡母を見てのち佛に母を救う方法を教えられ自恣(じし)(→自恣)の日に供養した故事に倣うもの。
大祓 おはらえ (神道)
大祓は六月と十二月に罪穢を祓い清める神事であり、六月末日と十二月末日に行われる。
神社で受けた形代(かたしろ)に家中の者の氏名を書き、大祓の日にこれを手に持ち見を撫でて、罪穢の祓われんことを祈念し、息を三度吹きかけてから神社に持参し、お祓いを受ける。
御来光 ごらいこう (神道)
日の出。
日の出を拝む宗教は多いが、その動機はいくつかに分かれる。
海から登る太陽が水平線から離れる直前、雪ダルマの頭のように下に「本体」とも呼ぶべき部分がくっついているように見えるのはご存知だと思われる。ここから、太陽というのは地平線(水平線)下に太陽よりもずっと大きな「本体」があり、毎朝太陽一個分だけ水滴のように昇ってきて、夕方にはまた「本体」と合体するという解釈が出てくる。
したがって「出るには出たが勢いが足らない」「数が十個くらい出る」「一個も出ない」といった数々の心配もあるわけで、太陽を拝んで「ああ、教も普通のサイズの奴が一個だけ出た」と思って安心する、という拝みかたも当然あったりする。アステカには太陽の勢いが衰えないように生贄を捧げる儀式があったし、古代中国にはいくつも出た太陽を弓矢で射落として一個に減らしたという神話があり、日本にはアマテラスの神が岩屋に篭って出てこなくなったために世の中が真っ暗になったという神話がある。
もう一つ、「初物」は生命のエネルギー(→粋(き))がもっとも濃い、と信じられているため、一日の最初の陽光を受けることで生命のエネルギーを盛んにするという意味で御来光を拝むという考え方がある。初日の出を拝んだり、年初や朝一番に汲まれた水や年が明けて最初に点けられた火を神聖なものとしたり、その年に最初に収穫された作物を珍重したりするのも同じことである。
日本人は基本的に自然信仰なため、日の出は単純に神々しく美しいものだと思って拝んでいる部分もある。だから日の出に限らず夕日や夜半の月も同じように拝んでいるが、これは世界的にみてけっこう稀な例であり、特にヨーロッパでは日没や夜中の満月は不吉なものとされることが多い。
なお、ときどき御来迎(→御来迎)とごっちゃにしている人がいるので注意が必要。
御来迎 ごらいごう
阿弥陀如来が、人の死に際して光と共にその魂を迎えにくること。いわゆる「お迎えが来た」状態。
前述の通り本来は佛教語であるが、原始宗教全般に存在する概念として捉えることもある。英国の讃美歌・『アメイジング・グレイス』も、この「お迎えが来た」状態を歌ったものであり、海外のドラマなどでバックにこの曲が流れた場合、主人公または主要な登場人物の死を暗示しているというのがお約束である。
自然現象として「御来迎」は、大気中の霧が起こす回折現象によって起こる『ブロッケンの妖怪』をいう。『ブロッケンの妖怪』は別名をブロッケン現象ともいい、ドイツ中部のハルツ山地の主峰ブロッケン山(1142メートル)でしばしば見られるためこの名がある。霧に映った自分の影法師の頭の部分(正確には眼の部分)を中心に阿弥陀如来の光背のように虹色の円(外側が赤、内側が菫)が見える。さらのその外側を取り囲むように虹の輪が見える場合は反射・屈折によるもの。
槍ヶ岳を開山した江戸時代の僧・播隆(ばんりゅう)上人の登山記録、『信州鎗嶽略縁起』によれば、「天保五年八月六日、平兵衛という者が槍ヶ岳に登り、日の出を拝んだ。北の空を眺めると四五間離れたところに丸い光の輪が現れたが、阿弥陀様の姿はなかった」とある。槍ヶ岳山荘では春から秋にかけて多く見られるそうである。なお、筆者は大山の「富士見台」で御来迎に遭遇したことが一度だけある。
西洋で「御来迎」とされるものには、もう一つハローがある。これは太陽の周りに光の輪が見え、さらに十字架に取囲まれたように見える。こちらは氷の結晶によるもの。福音書にはイエスが山でハローと「御来迎」の両方が同時に出現し、おっちょこちょいで有名な弟子のペトロがそれを「モーゼと預言者エリアが現れた」と勘違いするというエピソードが記されている。
(→御来光)
酒と餅 さけともち
日本人にとって酒、特に濁り酒(どぶろく。別名を「白馬(しろうま)」ともいう)は生命の象徴であった。古名は「き」。つまり「お神酒(おみき)」の「き」である。
「き」というのは「酵母」「酒母(しゅぼ)」「酒種(さかだね)」などに相当し、つまりは「イースト」「もろみ」「濁り酒」である。蒸した米に「き」を加えると、全体が「き」になる。すなわち「き」は増殖するのである。男性の精液もまた「き」の一種と考えられ、「金玉」というのは「『き』の玉」が語源であるとされる。
また、蒸した米を搗き固めた「餅」は豊作の象徴であり、新生児の象徴である。さらに杵は男性器、臼は女性器、「餅搗き」は性行為の象徴でもあった。民話・『花咲爺』の「餅搗きをすると臼の中から大判小判がざくざく出てくる」という場面には、そうした寓意が込められているのである。
阿夫利神社に祀られている大山祇命は餅から酒を造ったとされるが、この「餅」は現在でいう「餅」というより蒸米そのもの、つまり「強飯(こわいい)」であろう。大山祇命は天地開闢以来初めて酒を造った酒造の祖神とされて酒解神(さけとけのかみ)とも呼ばれ、娘にあたる木花開耶姫命も酒解子神(さけとけのこがみ)と呼ばれて酒造の神様とされる。
自恣 じし (佛教)
夏安居(なつあんご)の最後の日。
夏安居は単に安居(あんご。原語は「雨季」の意)ともいい、僧侶が雨季の間外出しないで部屋にこもって修行に励むこと。通常、陰暦の四月十六日から七月十五日までの期間。
自恣はその夏安居の最後の日で、この日に集まった僧が自分の過ちを懺悔告白し、他の僧の訓戒を受ける。
大師 たいし (佛教)
1)もともとは佛・菩薩の尊称。たとえば達磨大師がその例。
2)中国において、朝廷が優れた僧に賜った諡(おくりな)。
3)日本において、中国の(2)の風習を真似て、天皇が僧に賜った称号。
日本で「お大師さん」といえば弘法大師空海ということになってはいるけれど、実際には天台宗・伝教大師最澄を筆頭として総計二十二人を数える。
たとえば川崎大師と西新井大師は弘法大師空海で、上野の両大師は慈恵(じえ)大師良源と慈眼大師天海のお二人。
佐野厄除け大師(またの名を角(つの)大師)は元三(がんさん)大師・良源(九一二〜九八五)だけれども、実際には大師号を賜っていないので「慈恵(じえ)大僧正」というのが正しい。
そんなわけで大師を一覧にすると以下の通り。
伝教大師・最澄、清和天皇、貞観八年(八六六)
慈覚大師・圓仁、清和天皇、貞観八年(八六六)
弘法大師・空海、醍醐天皇、延喜二十一年(九二一)
智証大師・圓珍、醍醐天皇、延長五年(九二七)
慈眼大師・天海、後光明天皇、慶安元年(一六四八)
興教大師・覚鑁(かくばん)、東山天皇、元禄三年(一六九〇)
○圓光大師・法然、東山天皇、元禄十五年(一七〇二)
理源大師・聖宝、東山天皇、宝長四年(一七〇七)
○東漸大師・法然、中御門天皇、宝永八年(一七一一)
○慧成大師・法然、桃園天皇、宝歴十一年(一七六一)
聖応大師・良忍、後桃園天皇、安永二年(一七七三)
道興大師・実慧、後桃園天皇、安永三年(一七七四)
○弘覚大師・法然、光格天皇、文化八年(一八一一)
法光大師・真雅、仁孝天皇、文政十一年(一八二八)
○慈教大師・法然、孝明天皇、文久元年(一八六一)
見真大師・親鸞、明治天皇、明治九年(一八七九)
承陽大師・道元、明治天皇、明治十二年(一八七九)
慧燈大師・連如、明治天皇、明治十五年(一八八二)
月輪大師・俊仍(しゅんじょう)、明治天皇、明治十六年(一八八三)
慈摂大師・真盛、明治天皇、明治十六年(一八八三)
慧燈大師・関山、明治天皇、明治四十二年(一九〇九)
常済大師・瑩山(えいざん)、明治天皇、明治四十二年(一九〇九)
○明照大師・法然、明治天皇、明治四十四年(一九一一)
真空大師・陰元、大正天皇、大正六年(一九一七)
立正大師・日蓮、大正天皇、大正十一年(一九二二)
○和順大師・法然、昭和天皇、昭和八年(一九六二)
一度は賜った大師号が撤回されたり途中で中止された例もある。
後二条天皇は徳治三年(一三〇八)に東寺の益信(やくしん)に本覚大師の諡を賜ったが、比叡山の僧兵の反対で撤回され、後奈良天皇は天文九年(一五四〇)に根来寺の覚鑁(かくばん)に大師号を賜ろうとして僧兵の反対のため中止された。
また、一人で七つの大師号を持つ法然のような例もある。
徳川幕府が浄土宗であったので、朝廷は幕府に敬意を表わし、浄土宗の始祖の法然には五十年に一度の大遠忌のたびに大師号を賜る慣例となり、幕府が滅びたあともこの慣例は守られている。
なお、大山には伝教大師・最澄、弘法大師・空海、慈眼大師・天海と少なくとも三人の大師様がおられるので、なるべく「何々大師」と区別して呼んでほしい。
百万遍 ひゃくまんべん (佛教)
「百万遍」は百万遍念佛を意味し、信者が車座になって珠数千八十個の大数珠を念佛しながら千回繰ること。中国で極楽往生を願って七日間に百万回の念佛をしたのが始まりとされる。
百万遍は現在でも足立区鹿浜七丁目にある阿弥陀院の境内で、押部文化保存会を中心に伝統文化として継承されている。この阿弥陀院の百万遍で用いられる大数珠は直径約五メートルある。
蛇 へび
日本の本州の蛇で最大のものは、青大将である。
青大将は英語でジャパニーズ・ラット・スネークと呼ばれ、米蔵や人家の屋根裏などに住んで鼠を捕らえることで知られている。蛇は肉食であるため澱粉を消化する酵素を持たず、米を食べた鼠を呑むと糞の中に米粒が混じる。そこから「青大将は米を食う」という俗説が生まれた。
こうしたところから鼠は大黒様の使いとされ、青大将は大黒様の化身とされる。実験動物のラットはいわゆるイエネズミ(ドブネズミ)のアルビノ(白子。体色素を欠く白色変種)で、和名をダイコクネズミという。また岩国で信仰される白蛇は青大将のアルビノで、天然記念物。
こうして蛇は穀物と結びつき、豊穣祈願・豊穣神信仰の一部となった。正月の鏡餅は蛇のとぐろを表わし、花餅と呼ばれる丸餅は蛇の卵を表わすと云われる。また何度を脱皮を繰返すところから不老不死の象徴とされ、生命力のシンボルともされた。医療のシンボルとなっているアスクレピオス(ギリシャの医療の神)の蛇などがその例。そこから子孫繁栄や五穀豊穣と結びつく。
穀物・豊穣祈願・豊穣神信仰とくれば酒、というのが民俗学の常識。蛇といえば「うわばみ」、「うわばみ」といえば「大酒呑み」。八岐の大蛇(やまたのおろち)が酒に溺れてスサノオに退治されるエピソードはあまりにも有名。
阿夫利神社に祀られている大山祇命は穀物から酒を造った祖神とされて酒解神(さけとけのかみ)とも呼ばれ、娘にあたる木花開耶姫命も酒解子神(さけとけのこがみ)と呼ばれて酒造の神様とされる。こうしたところから、同じく大山祇命と木花開耶姫命を祀った神社には、「日本第一酒造神」の石標のある梅宮神社(京都市左京区梅津フケノ川町)がある。
蛇は一般に湿気のあるところを好む。日本では特にヤマカガシが水田や泉の近くに棲み、カエルや小魚などを捕食する。ギリシャ神話のヒドラやヒンドゥー教のナーダも、こうした水蛇である。大山は雨降山の別名をもつ雨乞いの山であるため、この点でも蛇との関連がある。
また、円錐形の山容は蛇のとぐろを連想させるため、蛇神信仰と結びつく。たとえば大山と同じく円錐形の山容を持つ三輪山などその例で、阿夫利神社と同じく「酒造の神様」として知られる松尾神社がある。
<その他>
大山 おおやま
「大山(おおやま/だいせん)」とは定説によれば「その国で一番高い山」を表わす美称とのことだが、実態としては「よく目につく山」「目標になる山」と考えた方が実態に即している。
「おおやま」といえばふつうは神奈川県の大山つまり相州大山だが、「おおやま」と呼ばれる山は相州大山以外にも千葉県・石川県・愛知県・和歌山県・香川県・福岡県・鹿児島県など、各所にある。
千葉県州崎の突端にある大山は標高一九三・八メートル。これに対して約十五キロ北東の金毘羅山は二〇八・五メートルと少しだけ高いが、海岸線から離れているため海からは見えづらいのであろう。ついでながら上総富士と言われる千葉県の富士山は285メートル、房総半島のほぼ中央にある伊藤大山(イトウダイセンではなく「いとうのおおやま」)は二四五・五メートルである。
石川県の大山(九二〇)は福井県との県境にある大日山(一三六九)を源とする大日川沿いにあり、大日山の前衛鋒という位置づけであるらしい。
愛知県の大山(三二七・九)は千葉県州崎の大山と同様に渥美半島の突端にある。
和歌山県の大山(五四四)もやはり熊野街道沿いの海岸近くにある。
讃岐山脈東端近く、香川・徳島県境にある香川県の大山(六九一・三)は徳島県側の吉野川河口近くからはよく目立つ山であるらしい。大山寺という寺が徳島県側にある。
福岡県八女郡の水縄山地、矢部川沿いにある大山(五九九)はあまり目立ちそうな山ではないが、二十キロほど東には大山町がある。
ついでながら鹿児島県の大山(三九八)は奄美大島の南にある請島の最高峰で他に山らしい山がない。さらに同じく奄美群島には沖永良部島の大山(こちらは「だいせん」、標高二四六メートル)があり、こちらも同島の最高峰で、同じく他には山らしい山がない。文句なしの「大山」である。
神奈川県の大山は丹沢山塊の中にあって江戸・東海道からもっとも目立つ位置にある端正な独立峰である。ちなみに標高でゆくと、
第一位 蛭ヶ岳 ひるがたけ (一、六二二・七)
第二位 大室山 おおむろやま (一、五八七・六)
第三位 丹沢山 たんざわさん (一、五六七・一)
第四位 塔ヶ岳 とうがたけ (一、四九〇・九)
第五位 袖平山 そでひらやま (一、四三一・九)
第六位 加入道山 かにゅうどうやま(一、四一八・四)
第七位 石棚山 いしだなやま (一、三五一)
第八位 菰釣山 こもつりやま (一、三四八・二)
第九位 畦ヶ丸山 あぜがまるやま (一、二九二・六)
第十位 黍殻山 きびがらやま (一、二七二・八)
第十一位 鍋割山 なべわりやま (一、二七二・五)
に次ぐ
第十二位 大山 おおやま (一、二五一・七)
であり、蛭ヶ岳に続く桧洞丸(「ひのきぼらまる」。標高一、六〇一メートル)、丹沢山の東峰(「ひがしみね」。標高一、三四五・四メートル)などの細かい峰まで数えるとさらに順位は下がる。
とはいえ日本全国の大山の中では、
第一位 神奈川県伊勢原市 (一、二四五・六)
第二位 石川・福井県境 (九二〇)
第三位 徳島・香川県境 (六九一・三)
第四位 福岡県水縄山地 (五九九)
第五位 和歌山県南紀 (五四四)
第六位 鹿児島県請島 (三九八)
第七位 愛知県渥美半島 (三二七・九)
第八位 千葉県州崎 (一九三・八)
と、断然トップの一位である。
(了)