「えー、おはようございます。」
「おはようございます、チャンドラ博士。今日の最初の授業を始めてください。」
「『二〇〇一年:宇宙のオデッセイ』は、やらなくてよろしい」
「歯が痛い。」
「イヨネスコの『授業』も、やらなくてよろしい。そんなわけで、授業です」
「はいはい」
「言語学における基礎概念に、主語と述語の主従関係、というものがあります。このT述語Uという言葉は相当にややこしい問題を含んでおるので、祟りをなさないように、[述語]とカッコに入れておきましょう。」
「つんつん」。つついたりして。
「つつくなぁーっ!」
「はーい」。何もそんなふうに怒らなくても。
「で、まず学校文法では[述語]についてどう説明しているのかを、現行の中学校二年生の国語の教科書の『文章・文』『文の成分』のふたつの章から見てみましょう。」
文章・文
- ◎文章
- 人が、言葉を用いて、自分の考えや気持ち、または事実などを、ある筋道をもって展開し、まとめた表現の全体。小説・評論・詩・手紙・講演・談話など。
- ◎段落
- 長い文章の中で、一つの事柄や考えを中心にしてまとめられた一区切りで、文章を構成する要素。書きことばでは、各段落の書き始めは、行を改めて、一次下げて書く。
- ◎文
- 考えや気持ち、また事実などを表した一続きの言葉で、意味の上でも、形の上でも、まとまりのついているもの。書く場合には、終わりに「。」(句点)をつけるのを原則とし、場合によっては「?」(疑問符)や「!」(感嘆符)を付けることもある。
文の成分
◎文の組み立て
文は、いくつかの意味のまとまりからできているのが普通である。
ア 花が 咲く。
右の文の組み立てを、意味のまとまりによってとらえると、次のようになる。
ア 花が(何が)− 咲く(どうする)。
文の中には、いろいろな意味のまとまりを成す部分があり、全体として一つの文を組み立てている。
イ 庭の桜の花が − 昨日から咲き始めた。
ウ 僕たちは、明日、市の体育館で、バレーボールの試合を、行う。
右の文の組み立てを、意味のまとまりによって図で示すと、次のようになる。
イ 庭の桜の花が(何が)
昨日から(いつから)− 咲き始めた(どうした)
ウ 僕たちは(だれが)
明日(いつ)
市の体育館で(どこで)
バレーボールの試合を(なにを)− 行う(どうする) ◎文の成分
意味のまとまりによってとらえられた、文を組み立てている一つ一つの部分を、文の成分という。文の成分には、次のようなものがある。
<主部・述部>
「鳥が 鳴く」(何が−どうする)
「桜の花が 美しい」(何が−どんなだ)
「僕たちの学校は 国語科の研究指定校だ」(何が−何だ)
右の文で、「鳥が」「桜の花が」「僕たちの学校は」の部分が物事を表しているのに対して、「鳴く」「美しい」「国語科の研究指定校だ」の部分は、その物事の動作や状態や内容などを表している。このような文で、「どうする」「どんなだ」「何だ」と述べる部分をT述部Uといい、述べられる物事「何が」を表す部分をT主部Uという。
<修飾部>
キ 妹が、しくしく 泣いている。(どのように)
ク 泉の水が きれいに 澄んでいます。(どのように)
ケ 体育館の改装工事は 今月中に 完成する。(いつ)
コ 僕の兄は ジェット機の模型を 作っている。(何を)
右の「しくしく」「きれいに」「今月中に」「ジェット機の模型を」の部分は、各文の「泣いている」「澄んでいます」「完成する」「作っている」を詳しく説明している。このように、述部を詳しく説明している部分をT修飾部Uという。修飾部には、「しくしく」「きれいに」のように、「どのように」と説明するものと、「今月中に」「ジェット機の模型を」のように、「いつ」「どこで」「何を」などについて説明するものとがある。
なお、修飾部は、次のように、いくつも重ねて用いられることもある。
サ 駅前の交番で、 僕は 若い警察官から 病院までの道を 詳しく 教えてもらいました。
<接続部>
シ 雨が降ったので、 遠足は 中止された。
シの文は、「雨が降った」「遠足は中止された」の二文であったものをつなぎ合わせて一文としたもので、「雨が降った」の部分は、後の部分の原因を表している。このように、一文の中で、原因・理由・条件・前提などを表す前の部分を、接続詞という。
ス 雨が降った。 そこで、遠足は 中止された。
スの後の文にある「そこで」は、前の文を受けて、「雨が降ったので」という原因を表している。このような部分も接続部である。
次の各文にも、接続部が含まれている。
セ 調べてみたが、原因は究明できなかった。
ソ 父が帰ってくると、その男は とたんに 黙ってしまった。
タ 夏が やって来た。 しかし、まだ そんなに暑くはない。
チ 海へ 泳ぎに行こうか。 それとも テニスに 出かけようか。
<独立部>
ツ ああ、驚いた。
テ お母さん、早く 来て。
ト はい、すぐ 行きますよ。
ナ 京都、それは 日本人の心のふるさとだ。
右の文の「ああ」「お母さん」「はい」「京都」は、いずれも文の初めにあって、他の文の成分との関係が比較的薄く、独立して用いられている。このような部分を独立部という。独立部は、感動の気持ちや呼びかけ・応答・提示などを表す。
「質問してもよろしいでしょうか。」
「どうぞどうぞ。」
「『述部を詳しく説明している部分』をT修飾部Uと呼ぶんですよね?」
「そういうことです。」
「『鳥が鳴く』の『鳥が』というのは、述部である『鳴く』を“詳しく説明して”ますよね? 『鳴く』だけじゃ、豚が鳴いてんのか、犬が鳴いてんのか、馬が鳴いてんのか分かんないんだから。」
「ええ。」
「主部って、修飾部じゃないんですか?」
「それは、T修飾Uという言葉の定義に問題があるんです。そこで、こいつも悪さをしないように、[修飾]とカッコの中に押し込んでしまいましょう。」
「えいえい」。ぐいぐい。
「ところでですね、
「私はラーメンを食べる」
の『ラーメンを』というのは、この定義によれば『食べる』を[修飾]してるはずですよね?」
「はい。」
「同じように、
「私はチャーハンを食べる」
の『チャーハンを』というのも、この定義によれば『食べる』を[修飾]してるはずですよね?」
「もちろん。」
「『修飾部は、いくつも重ねて用いられることがある』と、書いてありますよね?」
「書いてありますね。」
「じゃあ、
「私はラーメンをチャーハンを食べる」
というのは、文法的にいって正しい日本語なんでしょうか。
「私はラーメンとチャーハンを食べる」
が正しいという気がするのですが。」
「わかった。同じ種類の修飾語っていうのは、一度しか使えないんだ!」
「残念でした。
「妹が、しくしくいじいじめそめそ泣いている」
とかいうのは、文法的におかしくない。」
「すると?」
「[修飾]語として、一度しか使えないものと、何度でも使えるものがあるということです。この二種類を、同じように[修飾]語と呼んでしまっていいものだろうか、ということなんですよ。」
「うーん、わかんないです。」
「それからもうひとつ。
「蘇好美ちゃんは、清く正しく可愛らしく清潔で可憐で純情で元気な女の子です」
とかいった文章があったとします。この『清く正しく可愛らしく清潔で可憐で純情で元気な』の部分が『女の子です』を修飾しているとすれば、これは[修飾]部になるんですが、『女の子』にかかっているとすると、これは[修飾]部と呼んでいいんでしょうかね? [修飾]部はT述部Uを詳しく説明するものなんだから。」
「[修飾]部と呼んでもよろしいんじゃないでしょうか。」
「じゃあ、
「蘇好美ちゃんは、清く正しく可愛らしく清潔で可憐で純情で元気だ」
というのは何なんでしょうか。『清く正しく可愛らしく清潔で可憐で純情で』が『元気だ』を詳しく説明しているのかな?」
「はにゃはにゃー」
「へにょへにょー」
「えーん、わかんなくなってしまいましたー」。しくしく。
「みなさい。[述語]の祟りです。」
「うーん。つついたのがいけなかったのか。」
「かもしれない。そこで、原点に戻ります。」
「たとえば、『私はトマトを食べる』といったときに、『私は』が主語、『食べる』が[述語]。そして『私』が主、『食べる』という動作が従、そういうことになる。これがT主語と[述語]の主従関係U」
「『私』が主、『トマト』が従、というのではないのですね。」
「いきなり話がややこしくなってきたな。その場合、『私は眠る』の『眠る』のように目的語を取らない動詞というのはどうだという反論があったりするんですけど、『それは深層構造としては「私は私の眠りを眠る」という構造を持っている』とかいってしぶとく食いついてくる奴がいたりするから困るんです。」
「これ、本当に授業として成立するんですか?」
「多少、私も不安になってきました。まあ、多少の波瀾はあったほうが面白いという意見もありますが。とにかく、すべての言語においてはT主語と[述語]の主従関係Uというのがまずあるのだ、というのが、言語学における中心教義(セントラル・ドグマ)だということになっておるわけですよ。」
「だけど、『DNA→RNA→酵素』という生物学におけるセントラル・ドグマというのは、逆転写酵素の発見によってひっくり返ってしまいましたよね? 実際には『酵素→RNA→DNA』の順序で発生したのだと。」
「なんでそんなこと中学生が知ってんですか。」
「納屋さんが教えてくれたじゃないですか。コンピュータの構造は基本的に細胞と同じだ、って」
「……あ。」
「思い出しました?」
「失念しておりました。でまあ、じつはこの言語学におけるセントラル・ドグマは逆なんでないかい、と主張する人がいます。一九五八年にフィールズ賞を受賞したフランスの数学者、ルネ・トムという人です。この人の言語理論によりますと、[述語]のほうが主体なんです。」
「?」
「つまり、何かがT起きるUことに附随して、T対象Uというものが決まる。『私はトマトを食べる』という文章でいうと、『食べる』という事件が起きて、犯人である『私』と『トマト』という被害者が生まれる。主体であるはずの『私』というのは、ただ存在するだけでは認知され得なくて、何かの動作とか、出来事とかいったものとの係わりにおいてのみ認識されうるのだと」
「そういえば、ルネ・デカルトという人が似たようなことを言っていましたね。『コギト・エルゴ・スム』」
「『考える、故に、存在す』ですね。フランス人というのはこういう根源に対する希求っちゅーのがあるんでしょうかね?」
「わかんないです。あたしに訊かれても困ります。」
「まあいいや。で、つまりは『食べる』という動詞には、『何が』というのがぶら下がる腕と、『何を』というのがぶら下がる腕が一本づつ出てるわけ。そこに『私』とか『トマト』が結合する。そうすると、『私はトマトを食べる』という『原子文章』というものができる。」
「T原子文章Uというのがあるからには、T分子文章Uというのもあるのでしょうか。」
「あるんです。まず、この原子文章の中には、[述語]がただひとつだけ存在する。『私はトマトを食べる』の場合には、『食べる』が[述語]。で、一つの対象に二つの動詞が結合すると、分子文章になる。もっとも、ふつうは原子文章のことをT単文U、分子文章のことをT複文Uと呼んでますけどね。」
「それなら聞いたことがあります。」
「そうでしょう。で、この[述語]というのは英語ではfinal verb、日本語でしばしば「定動詞」と訳されるものなんですが、それをT述語Uと呼んだあたりから、そろそろ雲行きが怪しくなってきたわけです。」
「どろどろどろ(雲行きが怪しくなってきたのを表現している)。つまり、「verb=動詞」という対応を考えているわけですね?」
「ですが、英語のbe動詞は、日本語では助動詞『だ』『です』『である』なわけです。あるいは、『秋深し』なんていうものを文と認めてしまうと、形容詞までfinal verbに含めなければならなくなる。そこで「日本語では動詞のみならず形容詞もfinal verbたりうる」というところから、『述語』というふうに訳したわけです。これはヨーロッパの言語では、一般にありえないことなんだよね。『動詞=verb』というのが、お約束なわけ。」
「ふむふむ。」
「ただ、『述語』という訳はいかにもまずかった。TfinalUのところを活かしてほしかったと思います。個人的には『決定句』とでもするのがよかったと思う。」
「『決定語』ではなくてですか?」
「『語』という言葉を使ってしまうと、『そこに動詞が現れていること』イコール『そこに文があること』みたいな関係が成立っているみたいな漢字になってしまうわけです。なぜ単にverb(動詞)ではなくfinal verb(定動詞)なのかといえば、finalでないverbの用法があるからなんですね。『飲物』みたいに、動詞が単に連体修語として使われている場合もあるわけです。finalというのは、『何が』とか『何を』とかいった名詞句どうしの関係を『定める』という意味合いがある。だから、『決着句』とか『引受句』みたいな呼び名でもいいと思います」
「なるほどなるほど。」
「次にですね、主語以外にも、[述語]に要求される対象はあるわけです。たとえば目的語。『私はトマトを食べる』の『トマト』は目的語です。さらに、ある[述語]から見たときに、その対象が役割上どういう位置にあるかをというのを、その対象の文法上のT格Uといいます。T文法格Uとも言いますけどね。で、ある述語から見て、その対象がどういう格を持っているかを示すのが、T格助詞U。『を』は代表的な格助詞のひとつで、一般に目的語であることを示すわけです。」
例) 「象を撃つ」「私はラーメンを食べる」
「で、ひとつの[述語]に体しては、ある格を持った対象はただ一つしかありえない、という法則があります。これを『文法格の一意性』、といいます。ちなみに『一意に』というのは、『ユニーク(unique)に』とも表現します。で、この『文法格の一意性』というのはどういうところに効いてくるかというと、たとえば『ラーメンと餃子を食おう』と言うことはあっても、『ラーメンを餃子を食おう』と言うことはないといったことが起きるわけ。『ラーメンと餃子』、あるいは『ラーメンに餃子』とひとつにまとめないと、『食う』というひとつの[述語]の目的語にはならない。これに対して、格を持っていない[修飾]語は、いくつでも[述語]にかかることができる。『清く正しく美しく生きる』とかね。で、こうした『格を持たない[修飾]語』のことだけを『修飾語』と呼ぼうではないか、と思うんです。格を持ってるほうは、[述語]をT修飾しているUというより、[述語]からT要求されているUわけだし。」
「たとえば、『食べる』は、T誰がUとT何をUを要求すると。」
「そう。『与える』だったら、T誰がUとT誰にUとT何をUが要求されるわけです。で、さっきのトムという人は、こういったT要求するものUの組合せというのは、たぶん無制限に存在するわけではなかろうと考えたんです。たとえば、『食べる』と『飲む』と『貪る』と『摂る』は、おそらく同じではないかと。逆に『笑う』には、『〜を笑う』場合とただ『笑う』場合があるのではないかとか、『踊る』にしてもただ『踊る』のと『〜を踊る』のでは違った使い方がされているのではないかとか、『〜を笑う』『〜を踊る』というのは、『見る』『読む』『覚える』『叱る』なんかと同じ構造をしているのではないかとか、そういう構造上のパターン分けができるのではないか、と。自動詞と他動詞の区別なんていうのは、これの一種でしょう? 『落ちる』には『〜を』はないけど、『落とす』には『〜を』がある。『試験に』は『落とす』から要求されないけど、『木から』は『落ちる』と『落とす』の両方から要求される可能性があるとか。」
「そういうのとか研究して、何かの役に立つんですか?」
「コンピュータに人間の言葉を理解させるときに役に立ちます。『アメリカ大陸を発見したのは?』と『コロンブスが発見したのは?』と『コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは?』とでは、答えが違うでしょう。これは『発見する』が『誰が』『何を』、そして『いつ』『どこで』といったものを要求する、というのがあらかじめ分かっていて、そこから消去法によってそれぞれ適切な答えを推定しているわけです。で、いちいち動詞ごとに判別するより、いくつかのパターンを用意しておいて、どれに当てはまるか判断したほうが効果的だろうと。」
「なるほど。」
「で、さっきのトムという人は、初等カタストロフィ集合というものの形の分類から、この[述語]が要求する格のパターンを十八種類に分類したんです。」
「そういうのって、ホントなんですかね。人間の思考とか概念とかって、なんか、もっとごちゃごちゃしたというか、雑然としたメカニズムの産物であるように思うんですが。」
「つまり、人間の頭の中身が、高等数学だとか量子力学だとか、そういった理論できれいに説明できちゃうっていうのは、なんかウソ臭い、みたいな話?」
「そうそう。」
「初等カタストロフィ理論の教えるところによれば、カタストロフィ集合のパターンとその個数というのはそれを記述する微分方程式の複雑さにはよらなくて、『状態量が「遅れの規則」か「ポテンシャル最少の規則」のどちらかに従う場合、コントロール次元だけで決まってしまう』ということになっているのだけれど……わからんか。」
「わかんないです」。ははははは。
「まあ、カタストロフィ理論そのものが、『理論としては非常に面白いんだけど、現実に適応しようと思うといろいろと無理がある』という点で、迷信だとか宗教だとか言われてたしね。一種のホラ話・ヨタ話しだと思って話半分に聞いといてください。そのあとに登場したフラクタル理論だってTフラクタル病Uとか言われてたし、Tファジー症候群Uとか、Tカオス妄想Uとかいうのもありがちな気がするし。単に面白がってるだけなら罪はないというか。」
「その程度の話なんですか?」
「その程度の話ではあるんですが、アナロジーとしてはなかなかに優れているわけですよ。つまり、頭の中にカタストロフが起きる。T発火UとかT発見Uとでも表現したらいいのかな?」
「『カタストロフ』を直訳すると、『破局』ですけどね。」
「しょっちゅう破局っても物騒だから、T発火Uにしときましょう。それが[述語]の正体であると。で、T対象Uの認識は、このT発火Uに附随して起きるんだと。で、このT発火Uには、十八種類のパターンがあるんだと。したがって、動詞というのは自動詞と他動詞なんていう大雑把な分類じゃなくて、『てにをは』の組合せによって十八種に分類されるんだと。」
「本当ですかぁ?」
「確かに係り受けの処理をコンピュータでやるときは、十八種類くらいのパターンで押えこめるというのは日本のパターン認識技術の父ともいえる高橋秀俊先生なんかが実験的に証明してます。そういう面では、それなりに信憑性もないわけではない。」
「うーん、科学技術してますね。」
「でまあ、原子文章が片付いたところで、分子文章にまいりましょう。[述語]と[述語]とは、対象を介して結びつきます。つまり、ある[述語]の目的語が、別の[述語]の主語になることがあったりするわけです。」
例1) 「被害者を刺した男性は逃走した」
「男性」は「刺した」の主語で、「逃走した」の主語
例2) 「俺が頼んだラーメンを食ったのは誰だ?」
「ラーメン」は「頼んだ」の目的語で、「食った」の目的語
例3) 「飼っていたカナリアが逃げた」
「カナリア」は「飼っていた」の目的語で、「逃げた」の主語
「こうして複数の[述語]が、対象(体言)を介して結合したものを、『分子文章』、あるいは『複文』というわけです」
「なるほど。」
「で、ここでいきなり土砂降りの大雨が降ってきます。『秋深し』の『深し』が[述語]なら、『秋が深い』の『深い』も[述語]ではないだろうか、みたいな話になった。これはまずいわけです。」
「なぜ。」
「さっき説明した、『文法格の一意性』に引っ掛かる。『秋が深いです』だと、主語が一個に[述語]が『深い』と『です』の二個。主語と[述語]は一体一対応でなくてはいけない。」
「あちゃー。」
「次に、『象は鼻が長い』。こっちの例だと、主語が二個に対して[述語]が一個。そんなこんなで、日本語には主語と[述語]の主従関係は存在しない、ということになった。そこで、日本語にはちゃんとした文法規則というものが存在しないのではないだろうか、つまり、日本語は非文法的な言語なのではなかろうか、そういった意見が一部の国語学者や言語学者から出てきてしまったのですね。」
「うーん、なんかそれ納得できないです。」
「そうでしょう。大野晋先生なんかも同じように考えたんですよ。」
それに、ドイツ語やらフランス語やら英語やらのヨーロッパの言語を勉強した先生たちは、しばしば日本語は非文法的な言語であるという。あるいは日本語は非文法的な言語なのかもしれないと疑わしくなってくる。しかし、そうした疑問を抱くと同時に、それに対して私の心の中には「日本語には日本語としての仕組みがあるのではないか」という考えが消えなかった。それならば、日本語の日本語らしい仕組みとは何なのか。それを明らかに知りたいというのが、私の出発点だった。「やっぱり、そうですよね。」
『不幸な学問』(大野晋『日本語の文法を考える』より)
「そんなわけで、『象は鼻が長い』に戻ります。この文には、述語(verb)が一つも含まれていません。にもかかわらず、『主語』であるらしい『象』や『鼻』といった対象が二つも含まれている。したがって、日本語においては欧米の言語学においては常識とされていた、『文法格の一意性』、あるいは『主語と述語の間の主従関係』というのは存在しないのだ、と考える国語学者や言語学者がも少なからずおったわけです。」
「だけど、その説明で納得できなかった人がいたと。」
「そう。ロシア語のbe動詞の例にもある通り、目に見えないからといって、存在しないとは限らないとは限らないわけですよ。『俺、ラーメン』『あたしも!』だけで、『私はラーメンを注文する者である』『私もまた、ラーメンを注文する者である』という意味は通じるでしょう?」
「通じますね。」
「それに、『は』や『が』がついているからといって、はたして『象』や『鼻』は主語なんだろうかという疑問があるわけです。たとえば、こんな例があります。」
例) 「トマトは食べたが、ピーマンは残した」 「ラーメンも食べたい」
「この場合、トマトやピーマンやラーメンは、『食べられる』の主語にはなりえても、『食べる』の主語にはなりそうにない。『続・宇宙からの人食いトマトの恐怖』『怪奇・人食いピーマンの館』とかいうのなら、もちろん話は別なんですけどね。」
「普通、トマトさんやピーマン君がいたと考えるんじゃないでしょうか。」
「その場合でも、『ラーメンも食べたい』は意味不明なわけです。つまり、『は』や『が』や『も』がついていても、目的語であるという例が確かに存在すると。したがって、『は』『が』『も』は『主語を表す格助詞』ではないという結論になる。そこで最近では、『とりたて詞』というふうに呼ばれているようです。私は単に『強調助詞』と呼んでますが。」
「じゃあ、主語を表す格助詞というのは、なんなんですか?」
「ないんですよ。」
「は?」
「日本語には、主語を表す格助詞は、存在しないんです。T日本語には、主語を表す格助詞がないUというのは、言語学の観点から見るとかなり奇妙なことのように見えるんですよ。なにしろT主Uなんですから。特にヨーロッパの諸言語の中には、『主語』を特別扱いするものが多いんですよね。たとえば動詞の人称変化なんかがそうでしょう。」
「三人称単数現在のs、とかですね?」
「そう。だけど、主語だって、『文法格をもった対象』のひとつでしかないじゃないかと思うんですよ。
よぉっく考えてみるとというか、気づいてみればというか、主語というのはTあって当然Uのものなんですよね。いちいち『これが主語だ!』と示すほうが変といえば変かもしれない。じっさい、英語なんかでも、主語が自明である命令文では省略されちゃってますし。」
「なるほど。」
「じっさい、主語に付いている『は』を全部省略したとしても、コミュニケーションにはまったく不自由しないんです。しかし、省略するというとなにか粗略な感じがする。そこでT丁寧な日本語Uにおいては、T比較的おとなしい強調助詞Uであるところの『は』を、とりあえず付けておくというのはありそうな話だとは思いませんか。」
「かなり、ありそうな気はしてきましたね。」
「してきたでしょう。ですから、
「それじゃあ、『象は鼻が長い』の、省略された述語(verb)は何かということになります。」
「まず、『象は鼻が長い』は、『象は鼻が長いのです』と同義ですよね?」
「はい」
「さらに、『象は鼻が長い(何か)です』とも同じ意味であると。」
「はい。」
「ならば『象は長い鼻を持った動物です』はどうか。これは『持った』がまずい。こんなふうに恣意的に述語(verb)の数を増やしていたら、いくらでも『省略された述語(verb)』が出てきてしまう。」
「ふむふむ。」
「そこで、『象は長い鼻の(動物)(です)』というのを考えてみる。で、これが正解のような気がしたわけです。」
「『長い』と『鼻』の前後関係が入れ替わってるのは、いいんですか?」
「その入れ替わりに意味があると考えたんです。『長い髪の女の子』は、『短い髪の女の子』や『金色の髪の女の子』や『黒い髪の女の子』と対比した場合、『長い』の部分が際立っていると解釈できる。また、『髪が長い女の子』は、『脚が長い女の子』『頚が長い女の子』と対比した場合、『髪』の部分が際立っていると解釈できる。つまり、T強調される部分が前にくるUという規則があるのではないかと。」
「説明として無理がない感じはしますね。」
「でしょう? 『象は鼻が長い』が『象は長い鼻の(動物)(です)』の省略形であり、『象は長い鼻の動物です』の『鼻』が強調されたものだと考えるわけです。すなわち、『長い鼻の』の『鼻』が強調された結果、『鼻が長い』(あるいは、『鼻の長い』)といった逆転が起きのではないかと。この、T連体修飾節において、修飾される体言が強調された場合に、語順の交換が起きるUという仮説を、『強調転置仮説』と呼ぶことにしましょう。」
「T仮説Uということは、まだ検証されていないと。」
「といいますか、とりあえずそう解釈すると納得がいくのだが、脳の中身を覗いてどうこうということができない以上、T証明Uのしようがないという意味で仮説。現状では、この仮説に基づいて日本語処理システムを組んだけど、実用上の不都合はないということで納得していただくしかありません。」
「なるほろ。」
「さて、次は『接続語』と『独立語』です。これは文脈にかかわるものであり、文と文の関係を表すものなのですが、学校文法では文脈ということをちゃんと定義しておりません。非常に困ったことです。」
「そもそも文脈というのは何なんですかね。」
「論理学の世界では、文に相当するものを『命題』、文と文の関係を表わす言葉を『述語』といいます。具体的には『ならば』とか『ゆえに』とかが論理学における『述語』。で、述語によって表わされる文と文との関係が、文脈。『犬が西向きゃ尾は東』とか『風が吹けば桶屋が儲かる』といった類が文脈です。『犬が西を向く』と『尾が東を向く』の関係、『風が吹く』と『桶屋が儲かる』の関係が文脈。つまりは『犬が西を向いたのに、尾が東を向かなかった』とかいった逆接、『犬が西を向いたから、尾が東を向いた』という原因・結果、こういうものをいうわけです。『しかし』『なのに』『だから』『つまり』といった接続詞は、その場の状況と次に出てくる文との関連を表す。」
「うーん……そういうの、『文脈』って云いますかね?」
「日常会話でいう『文脈』というと、ちょっと違う意味であるような気がしますね。このあたりはちゃん整理しておきたいんだけど、困ったことに国語学のほうでは『述語』という言葉を先に別の意味で使っちゃってるんですよね。そうすると、説明のための言葉から論じていかないといけない。それはちょっと手にあまる。」
「たとえばの話、命題を表わすのが文、論理を表すのが接続詞とかいう理解では、いけませんか。」
「じっさい、論理学の分野ではそういう解釈も行なわれているようです。様相論理学という学問がありましてね、こうした文と文の関係を論理式で表現して扱うといったようなことも試みられています。たとえば、法律の条文なんかは論理式の形で記述できれば検索にも便利ですしね。実用化を前提とした研究も一部では行なわれているようです。」
「へー。進んでるんだ。」
「次に『独立語』なんですが、『お母さん』が独立語だというのなら、『誰?』『私』『おお!』というのは独立語だけで会話が進んでいってることになって、はなはだ都合が悪い。ですから、『独立語』という区分は立てないほうがよろしい。」
「なるほどね」
「で、いわゆるT独立語Uというのは、その『状況』を作りだすわけです。『古池や』といえば、もうそこに『古池』という状況が展開するわけです。その古池で何が起きるか。その状況の中で、以下の文は解釈されるのだぞ、という『心構え』ができあがるわけ。『誰?』と一声叫べば、そこに正体不明の人物が立ち現れたことが知れる。『おお!』と一声叫べば、そこに尋常ならざる状況が立ち現れたことが知れる。」
「『違ぁーうっ!(TぁUにアクセント)』とか『あぶなーい。』とか『ばかもーん!』とかいうのも、TいわゆるU『独立語』の範疇ですもんね。」
「そう。そういうものはT独立Uしているとは言いがたい。むしろ『断片』なのですよ。」
「さて、それでは単文と複文の構造が明らかになったところで、語順の問題に移りたいと思います。」
「『いやだ』とか言ったらどうします?」
「泣くぞっ!」
「ああっ、泣かないで」。ろりろり(うろたえている)。
「でもって、語順です。『私は昨日ラーメンを食べました』という文章があるとしましょう。これは、『[私は/昨日/ラーメンを]食べました』という構造をしていますから、『昨日ラーメンを私は食べました』でも『ラーメンを私は昨日食べました』でも文法的には問題がなくて、意味もさほど変わりません。で、ふつうは『相・主語・目的語・補語・格を持たない修飾語・述語(verb)』の順に並べると、いちばん納まりがいいという気がします。」
「T相Uというのは何ですか?」
「時間と場所のことを、格と区別してT相Uと呼ぶんです。主語と同じように、述語(verb)についていつでも存在するんですが、必ずしも要求されない。未来だとか過去完了だとか恒真条件なんかの場合には、具体的に指定できませんから。来年の今月今夜も再来年の今月今夜も十年後の今月今夜も1+1は2なんです。」
「なるほどね。」
「で、『昨日・駅前で・私は・焼肉を・腹一杯・食べた』とかいうのが、もっともエネルギー的に安定した形であると。」
「その文例だと、補語が抜けてますね。『三日前・この部屋で・先生は・あたしに・そっと・キスした』とかいった例のほうが、適切なのではないでしょうか。」
「それはT適切Uの定義によりますが。ただ、この順序だと、『この部屋で』が強調されているようにも見えてしまうということがあります。そこで『場所』を示す『於格』という文法格を立てて、『相』ではなく『格』として立てるという流儀もあります。ついでながら、こういうのを頭に入れておくと、作文のときに役に立ちます。語順にあんまり迷わなくなる。強調したい部分は前にもってきて、どうでもよかったり解りきってたりする部分は省略してしまう。ちなみにラテン語では、同じようなことができます。名詞の格変化というのがあるから、どの名詞がどんな格を持っているかが分かる。だから、ギリシャ語やラテン語を英語やフランス語に翻訳するときはどうしても意訳しなくちゃならないんだけど、日本語だと直訳で意味が通じるし、明治時代の先人は、それを実際に行なってきたわけですよ。ハイドロゲンが水素でオキシゲンが酸素、ペニンシュラが半島でオーストラリアが南洋州だとかいうのはギリシャ語を漢字で置き換えただけ。ラテン語にしたって『コギト・エルゴ・スム』は『考える、故に、存在す』だし、『ヴェニ・ヴィディ・ヴィキ』は『来た、見た、勝った』。果たしてフランス語やドイツ語や英語でこれと同じことができるかどうか。」
「うーん。無理ですよね、やっぱり。」
「日本人って専門教育まで日本語で受けられるじゃないですか。だから、欧米人に比べると外国語に弱いひとが多いんですよ。ところが、世界的にみると、『ちゃんとした専門教育』っていうのは、コンピュータなら英語、料理やファッションならフランス語、哲学や化学ならドイツ語、統計学や熱力学や制御工学ならロシア語といった、それぞれの学問が発展した国の言葉で学ぶのが当然なわけです。だから外国語がカタコトだと、『ああ、こいつはちゃんとした教育を受けてないんだな』ということで、最初っから相手にされないわけ。ところがギッチョンこっちは漢語と日本語の素養があるから、ギリシャ語やラテン語を学ぼうとするとそれが有利に働く。だけど、我々にとってはギリシャ語は『もうひとつの漢語』、ラテン語は『もうひとつの日本語』になりうるし、ある水準以上の科学技術系研究者にとってはすでにそうなってるんですよ。こうなると外国のインテリ連中の驚くまいことか。アジアの田舎者のはずの相手が、自分たちよりヨーロッパ文化の源泉たるギリシャ・ローマ文化に近いところにいるわけだから。こっちは『まったくアメリカ人なんてぇのはギリシャ語も知らねぇんだから』とか『何お前フランス人のくせしてラテン語も分かんないの?』とかいう感じで侮蔑の眼差しを送ってしまうわけですよ。そうすると田舎者のアメリカ人は思わず腰が低くなってしまうし、プライドの高いフランス人は、劣等感に身悶えしてしまうわけです。逆に台湾・マレーシア・シンガポールといった中国系の研究者は子供の頃から日本の工業製品使って日本製アニメ見て日本の雑誌読んで日本の大学に留学して日本語の専門書で勉強してますから日本にシンパシーがあって、いきなり日本語で話しかけてくる。なにしろ漢字が使えて中国の史実に詳しくて李白だの杜甫だのがすらすら出てくる。『呉越同舟』だの『四面楚歌』だのは誰だって知ってる。詩にしたって酒飲みながら『両人対酌して山花開く』『一杯一杯また一杯』、『満酌辞するを用いざれ』『人生別離足る』てなもんです。日本人なら漢字見りゃ、『おお、やったやった。高校で習った』と思うわけです。アメリカ人でギリシャ・ローマの古典を原語で読める奴がどれだけおるか。酒飲んでギリシャ詩人の詩が口をついて出る奴がどれだけいるか。だから、古文・漢文を含めて真に日本語が『できる』人というのは、欧米で十分通用する……というか、相手の土俵で勝負してたらネイティブ・スピーカーには勝てないわけで、むしろ欧米文化の根っこを掴むという意味で、文語や漢語の素養は必要だと思います。」
「うーん、凄い。」
「ちなみに、日本語のように最後に述語(verb)が来る形式を、『逆ポーランド式』と言います。」
「なぜ。」
「ポーランドの数学者ルカシェウィッツが発表した方式だから。FORTHなんていうプログラミング原語は、この逆ポーランド式を採用してます。『bの自乗から4とaとcの積を引いて表示』なんていうのは、コンピュータで機械的にFORTHプログラムに変換して実行できます。実際にそういうシステムもありました。音声インタフェースと組み合わせると、なかなかに面白そうな気がする。」
「ふむふむ。だけど、実用性ってあるんですかね、そういうの」
「たとえば
(X+Y+Z)÷(X−Z)
なんていうのは、普通は括弧を使わなければ表現できませんでしょう? ところが逆ポーランド記法だと、括弧を使わなくても
X Y + Z + X Z − ÷
÷ + + X Y Z − X Z
となるんですが、これは皮肉なことに、括弧が多いことで悪名高いLISPというプログラミング言語のスタイルだったりします。ちなみにLISPだとこんな感じ。
(DIV(ADD X Y Z)(SUB X Z))
「ちなみに日本語だと、
「XとYとZの和とXとZの差の商」
でOKだと。」
「日本語って、カッコいいだろ。」
「カッコいいですねぇ」。ほくほく。
「さて、学校文法では語順についていろいろとごちゃごちゃ書いてありますが、じつのところ重要なのは
「ああ、気分が萎える。」
「萎えちゃいますか。」
「説明しても不毛だから厭なんだ、これ。私は一応、『文の成分』のことを『節』、文節のことを『句』と区別しております。ついでながら、『文節』というのは、『ね』『さ』『よ』『な』『ら』『ぞ』のどれか一つで句切れるものだというのが昔から言われておりますが、これも決して完全ではありません。」
「ちょっと説明が投げ遺りではありませんか?」
「『ちょっとネ、説明がネ、投げ遺りではネ、ありませんかネ』と切れるのが学校文法でいう文節なんですが、『我輩は猫である』が『我輩は・猫である』なのか『我輩は・猫・である』なのか『我輩は・猫で・ある』なのかが判然としないという欠陥がある。そもそも、『猫』が『である』にかかっているのか、『猫で』が『ある』にかかっているのか、『猫』に『である』という『助詞』あるいは『助動詞』あるいは『補助動詞』が接続して述語(verb)を作っているのかといった本質的な論議がなされてないから、断定的なことが言えない。『我輩は猫ではない』の『で』を『である』の『で』と同一視するべきや否や、といったことまで考えだしたら、泥沼です。」
「じゃあ、さっきの『節』と『句』の区別というのは、何なんですか?」
「『我輩は・猫である』で、句が二つ。で、『我輩は』も節なら、『私の教え子であるところの蘇好美ちゃんは』も節。お互いに影響しあってて、分けると問題ありなのが、句。別々のものなんだけど、まとめて扱いたいのが節。べつに句のことを節、節のことを句って呼んでもいいんだけどさ、便宜上こう呼んでます。つまり、『好きなように呼んでください』ということ。そういう性質のものは、試験に出せない。だから、熱心に説明しても、本当に興味がある人にしか通じない。本当に興味がある人の場合、『どっちをどう呼ぶか』という点についてそれなりの考え方を持ってるから、その人のやりかたを尊重したい。したがって、説明しても不毛。むしろ、相手との擦り合わせが必要。」
「うーん。そういうものですかね。」
「私は句と節のどっちが大きい単位なのかが分からないんですよ。『一節(いっせつ)』というと『ある長さを持ったまとまり』という気がするし、『句』というと『単語』というイメージが先に立つ。だけど、『俳句』なんていう場合は、『ひとまとまり』でしょう。あるいは『切れ目』が『節』で、その結果できたものが『句』だとすると、どっちがどうとは言えなくなる。どうなんでしょうね、これ。」
「どうなんでしょうねえ。」
「わかんないでしょ?」
「わかんないです。」
「放っとこうか。」
「放っときましょう。」
「で、ここで形容詞連体形の隠れた主語について述べておきたいと思います。」
「形容詞は[述語]になんないんだから、主語は要求しないんじゃないですか?」
「いかにも。たとえば『桜の花が 美しい』なんていう文を『主語・述語』の関係で捉えてしまうと、妙なことが起きてしまう。『美しい』は形容詞で、言語学の常識からいえば、形容詞が述語(verb)になる例はない。しかるにこの『桜の花が』を主語、『美しい』を述語(verb)と認定してしまうと、
「たとえばの話、周囲の状況によって、形容詞の意味は違ってくるわけでしょう。T速いU船よりT遅いU飛行機のほうがT速いUし、T小さなU象はT大きなU鼠よりT大きいUわけです。T色が白いUにしたって、北欧女性と日本人の女性では意味が違うし、「青い林檎」と「青い絵の具」では「青い」の意味が違います。つまり、『目の前にある複数の対象のうちから、そのうちの目的とする対象を切取る操作』というのが、形容詞連体形の役割なのではないか、と思うんですよ。そこで、どうしてもT私Uの視点というものが、そこに入り込んでくるような気がするんです」
「意味的には確かにそうだと思うんですけど、それが文法にまで反映されるんでしょうか。」
「たとえばの話ですね、
「私は悲しい」
という文章に、特に違和感はありませんでしょう? ところが、
「彼は悲しい」「彼女は嬉しい」
とかいった文章は、あからさまに変であると。ところが、
「彼は悲しそうだ」「彼女は嬉しがっている」
という文には、やっぱり特に違和感はなかったりするんですよ。つまり、『恥ずかしい』『悲しい』『嬉しい』とかいった形容詞の連体形は、『語り手の判断』を表しているわけです。」
「それって、形容詞の連体形の性質じゃなくて、『恥ずかしい』とか『悲しい』とかいった形容詞そのものの性質っていうことはありませんか? たとえば、電話で『そっちへ行く』って言うときに、英語だとcomeを使うでしょう? それと同じように、『そっちへくるよ』っていう言い方が、方言にあるって聞いたことありますけど。」
「確かにその可能性はあるんだよね。だけど、相手の物理的なT視点Uに実際にT立つUことはできるだろうけど、T判断UやT感覚Uはその人そのものに属したものでしょう。そこで違いが出てきそうに思うんです。」
「ふむ。」
「で、これをもっと突き詰めて考えてみようではないか、と。『赤い林檎』は、T赤さUを持っているわけではないんです。より正確にいうと、『観察者をしてT赤いUと判断せしめる物理的性質』を持ってはいるけれど、『赤さ』という意識(これをクオリアという)自体は観察者の中にしかないわけです。」
「まだ、よくわかんないんですが。」
「たとえばの話、『大きい鼠は大きい鼠である』は正しくても、『大きい鼠は大きい』は正しくないと。すると、『大きい鼠』のT大きさUというのは、どこへ行ってしまったのかと。」
「うーん、深いですね。」
「こう考えてみると、日本語というのは恐ろしく論理的にできているわけですよ。ですから、『林檎は赤いです』なんていう表現は、いかにもダサい感じがするんです。『林檎=赤い』という、いかにもヨーロッパ語的かつ即物的かつ幼稚な発想を呼び起こさせるから。主語と形容詞をbe動詞でつないじゃうというのは、いかにも無神経な気がする。」
「うーん。そういうものですか。」
「じゃあ、最初にあげた『桜の花が美しい』という文は、どう解釈すべきかということになります。ですが、ふつう、『桜の花が美しい』とかって言います? 私はどういう状況でこういう言葉が出てくるのか想像がつかない。『誰だこんな訳わかんねー例文を教科書に載せた奴は』とかいって怒ってしまいますね」
「なるほど。それは分かります。」
「でまあ、気を取り直して解釈してみると、これは、『美しいものは数々あるのだが、そのなかでも今現在、この状況の中では桜の花が美しい』のではないかとかろうじて想像がつくわけです。すなわち、
「桜の花が 美しい」
は、
「美しい桜の花」
を含意する、ということなわけです。で、『桜の花』が強調された結果、『美しい』の前に出て、『桜の花が 美しい』になったと解釈することができる。」
「そうすると、これって文ではないということになってしまいませんか。述語(verb)が存在しないんだから。」
「まさしくその通り。つまり、この「桜の花が 美しい」は、少なくとも二つの解釈の可能性があるわけです。
「じゃあ、次に『活用』という概念について。まずは説明から入りましょう。」
活用とは、
「良く_なる」「良う_ございます」「良き_日」「良い_人」
といったように、時代、言い回し、あるいは後に続く語の性質によって、同じひとつの語の形が変わることをいいます。
活用する語のことを、「用言」といいます。
「赤い」という形容詞を例にとってみましょう。
「赤い」には、「赤く」「赤う」「赤き」「赤い」といった、それぞれ決まった働きをもった一個一個の形があります。この一個一個の形を「活用形」といいます。
「赤い」のそれぞれの活用形は、
「変化しない共通の部分」+「変化する部分」+「用言に付属して、意味を表す部分」
のように、三つに分割することができます。一般に、このうちの変化しない部分を「活用語幹」または「語幹」、変化する部分を「活用語尾」または「語尾」、付属する部分を「助詞」と呼びます。
つまり、「赤い」の場合でいうと、「赤い」は
「あかく/あこう/あかき/あかい」
と活用しますから、
「あ」(語幹)+「か/こ/か/か」(語尾)+「く/う/き/い」(助詞)
のように分割できることになります。
ところが、この「語幹+語尾+助詞」という分割のしかたには、ちょっと困った欠点があります。
たとえば、「赤い」ではなく「良い」を例に考えてみましょう。「良い」は
「よく/よう/よき/よい」
と活用しますから、
「よ」+「く/う/き/い」(助詞)
のようになり、語幹と語尾を分割することができない、ということになります。
あるいは、「良い」ではなく「美しい」を例に考えてみましょう。「美しい」は
「うつくしく/うつくしゅう/うつくしき/うつくしい」
と活用しますから、これを語幹と語尾に分割すると、
「うつくし」(語幹)+「ゅ」(語尾)+「く/う/き/い」(助詞)
になり、「赤い」の語尾は「か/こ/か/か」、「美しい」の語尾は「ゅ」という、かなり不自然なことになってしまいます。こうした不都合は、どこから出てきたのでしょうか。
「こういう説明って、普通は動詞から始まりますね?」
「動詞の活用だと、末尾音と活用の型の対応が見えづらいんです。そこで、形容詞のほうが適当であろうと。」
「わかりました。」
「で、ここで整理をすると、
「さて、そんなわけで定義を改めることにしましょう。
形容詞の活用形は、以下の原形および四つの活用形の、計五つからなります。
形容詞は、末尾音と活用の対応によって、以下のように五種類に分類することができます。
形容詞の活用表を、以下に示します。
| 指標音 | 連用「く」 | 連用「う」 | 終止 | 連体「き」 | 連体「い」 |
|---|---|---|---|---|---|
| a | ku | [o]u | si | ki | i |
| o,u | u | ||||
| e | |||||
| si | [syu]u | - | i | ||
| i | [yu]u | ||||
| []:末尾音の変化 | |||||
「えー、ところでですね、私もよく知らないのですが、松下文法というのがあるんだそうでございますよ」
「ほーほー」
「これは、国語学者の松下大三郎(一八七八〜一九三五)さんというひとが考えた文法なのですが、この松下文法というのが、非常にコンピュータ向きらしいということが分かっております。たとえば形態素(morpheme)に相当するT原辞Uだとか、文に相当するT断句Uだとか、汎文法(universal grammar)に相当する一般的な言語を考えてみたりとか、現代の自然言語処理において一般化されてる概念は、ほとんど先取りされてるようです。さらに、非常に整然としていて、かつ論理的なのだそうです。」
「それって、どうして一般化しなかったんでしょうね?」
「コンピュータがなかったからじゃないですか? 要するに、ありがたみが少ないというか」
「なるほどね」
「まず、この分類については、こういう意見があります」
第一は、活用形の認定、定義、命名が無原則で一貫性がないということであろう。「ふぅん。ずいぶん、いろいろ問題があるんですね。」
「同じ動詞が、文中での使い方によって」あるいは「次へのつながりかたによって規則的に形をかえること」というけれども、では
(a)変わる形の一つ一つを一つの活用形とし、その「使い方」(少なくともその代表的な使い方)に着目してその活用形を「何々形」と名付けるのか、
(b) 同じ形でも使い方が違えば違う活用形と見るのか、あるいは逆に
(c) 前項とは逆に、形は違っていても「使い方」が同じと認められれば同じ活用とするのか。
「書く」を「終止形」、「書け」を命令形とするのは、(a)の原則によるもので、これは誰にも分かりやすい。
しかし、「書ケ」が「バ」につづいて「書ケバ」となって「仮定形」と呼ぶというのなら、「書カ」は「ナイ」につづいて「書カナイ」となって「打消」を表すのだから「打消形」というべきであり、同じ理屈で「受身形」「使役形」というべきだ、ということにならないだろうか。
「書コ」を「推量の助動詞」「ウ」につづく形であるから(あるけれども(?))やはり「未然形」とするというのは、なおいっそう理解しがたいだろう。
以上あげたような無原則な、首尾一貫しない活用語尾の特徴づけをもたらした根本的な原因は、文語文法が文語の事実に即して作りあげた活用表を、ほとんどそのまま現代語の形の整理に押しつけようとしたところにあるといってよいだろう。「書コ」を未然形とするというのが最も端的な現れである。一方で、行と段によって活用語尾を何行何段としながら、「(書)カ、キ、ク、ケ、コ」と並べず、「(書)カ」と「(書)コ」を同じ「未然形」の枠の中に入れるのは、文語で推量の「ム」につづく形が「(書)カ」であったからというだけの理由である。書カム→書カウ→書コウという歴史的変化は無視し、推量の「ウ」につづく「(書)コ」は「ウ」が「ム」であったときに「(書)カ」という形であったから、というわけである。これはしかし、まだ「行」が同じだから、カ行内のことであるが、同じように、「接続詞テ」「過去(完了)の助動詞タ」につづく「(書)イ」という形が「 もと 」「マス」や「ナガラ」につづく連用形「(書)キ」と同じ形であったから、同じ連用形の枠に入れるとなると、ア行の形がカ行の形に入り込んでくることになる。 それに「ッ」や「ン」が加わって、いっそう混乱に輪をかけ、そもそも「何行何段」という言い方自体が現実と合わない事態になっているのである。これでは、日本の歴史を教えているのか、「現代の日本語の仕組みをはっきりと把握させ」ようとしているのか分からなくなってしまう。日本人の子弟を対象にするいわゆる国語教育でも、外国語として学習する人々を対象とするいわゆる日本語教育でも、上のような無原則さは許されてよいわけがない。
寺村秀夫『日本語のシンタクスと文法』
「未然形1については、『ない』『ぬ』『ん』『ず』に続く形なんだから、『打消形』とか『否定形』とでも命名したらいいんじゃないか、という意見があるんですけど、先の寺村秀夫先生や、角川書店の『古語大辞典』の編集をなさった阪倉篤義さんのように、反対されている方もおられます。その主な理由としては、『役割に応じて名前をつけてしまうと、活用形の数がやたら増えちゃうんじゃないか』という点です。たとえば、終止形と連体形ですね。だから、形が同じなら同じものと見なそうではないか、という意見なわけです。」
「未然形1って、否定以外に使われましたっけ」
「仮定を表す助詞『ば』が接続しますね。『海行かば』とか。」
「普通は『行けば』ですよね? 仮定形で。」
「そう。このT仮定の『ば』Uについては仮定形のところでちゃんと議論しましょう。で、寺村秀夫先生は、これ以外に受身や尊敬の『れる』や使役の『せる』をあげておられます。つまり、未然形1を『打消形』あるいは『否定形』と呼び、『連体形』と『終止形』を区別するのならば、これは『受身形』とか『尊敬形』とか『使役形』とか、それぞれの名前で呼ぶのか、と。」
「うーん、困りましたね。」
「じつは困らんのです。私はT打消しの意味の助詞に接続するから、『打消形』Uでもべつにかまわんと思ってるんです。現代語ではほとんどそれ以外の使い方をされていませんから、『その形を連想させる代表的な用法』ということであれば、『打消形』でいいだろうと。仮定の用法というのは、むしろ文語だから。」
「じゃあ、受身や使役については?」
「尊敬・受身・可能・使役が接続するのは未然形じゃないでしょう。尊敬・受身の『れる』に関して言えば、『見る』『出る』といった一段動詞には『られる』、五段活用には『aれる』でしょう? だけど『ない』は一段動詞に『ない』、五段動詞には『aない』。ほら、『れる』の一段動詞に接続する形は、『ら』が余計。」
「あ、ほんとだ。じゃあ、これはこれで別の活用だっていうことにしたほうがいいと。」
「前に説明したことの繰り返しになりますが、ワ行以外の五段活用動詞を子音末尾、一段動詞および五段ワ行動詞を母音末尾とすれば、尊敬・受身・可能・使役の表現は形態素の接続できれいに説明できます。ちなみに『形態素』というのは、こういう『尊敬』や『使役』とかいった、『文法的な意味をなす最小の構成要素』のことをいいます。英語の動詞で過去形を表す-dとか-edとかっていうのもこの形態素。ちなみに英語ではモルフェームといいます。」
「T形態素Uって、耳慣れない言葉ですね。」
「動詞や形容詞も形態素なんだけど、これはそれぞれ名前があるからそっちを使う。つまり、狭義の『形態素』というのは、広義の『形態素』のうち一般的な名称のないもののことをいうわけ。一般的じゃないから耳慣れないのは当然であると。言語学の世界では日常用語なんだけど、システム開発の方面では私の造語だと思ってた人がいた。」
「ところで、こういうふうにいちいち用語の定義を積み重ねてく厳密さに、ついてこられないひとはいるみたいですね。あたしなんかはむしろ、同じ言葉をいろんな意味でごっちゃに使われるほうが気持ちわるいですけど。」
「こういうきちんとした物言いというのも、慣れりゃ快感なんだけどね。で、否定の『ない』もじつは同じように形態素なんだけど、『ない』は『ぬ』『ん』『ず』といった否定の意味をもつ別の形態素と一つのグループをなしていて、このグループは動詞の同じ形に接続する。で、他にはほとんど接続する形態素がない。だったら『打消形』と呼んじゃってもいいんでないかい、ということなんです。」
「厳密性はともかく、わかりやすくはありますね。」
「で、さっきの『受身を表す形態素』っていうのが、動詞語幹の指標音によって、形を変えるんです。で、この『受身を表す形態素』っていうのは、動詞の語幹に直接接続するんですよ。で、この『語幹そのもの』の形を、『原形』と呼ぶことにします。」
「だから、そうやって活用形の名前増やしてくと、どんどん増えちゃうんですってば。」
「T活用形Uの名前を増やすから話がややこしいんであってね、同一の活用形に複数のT用法Uがあっても構わないわけでしょう? たとえば、『ましょう』には、『勧誘』と『推定』の二つの意味がある。『食事に行きましょう』なら『勧誘』、『明日は晴れましょう』といえば、『推定』。こういった場合は、『勧誘形』『推定形』としないで、『勧誘用法』『推定用法』とする。これなら問題はありませんね」
「じゃあ、Tなんとか形Uというのは、それぞれ違う形について言うことにするわけですね」
「未然形に関しては、それはしたくないんです。未然形の場合、もとは同じ未然形だったものが、用法の差によって形を変えたわけだから。つまり、打消の助詞に接続する形と、助詞」『む』に接続したものが『ん』を経て『う』『よう』で終わる形の二つです。他にも連用形と連体形では、現在時制の場合と過去完了時制で形が違ってます。だから、受身・尊敬・可能・使役の形態素に接続したり表出の形態素『たい』に接続する形を、原形あるいは造語形と呼んでもさしつかえない。」
「なぁるほど。筋は通ってますね。」
「で、未然形というのはどういう命名かというと、これは『う』『よう』に続く形まで一緒にしようとしたからこうなっちゃったんだよね」
「なんでそういう無理なことをするんですかね?」
「ですから、さっき言った理由です。文語文法だと、打消しの『書かず』と推量の『書かむ』があって、『ず』と『む』を助詞として立てたもんだから、語幹として『書か』が立つ。したがって必ずしも打消しの意味はないということで、文語文法においては『未然形』という命名は合理的なんですよ。それを踏襲したというだけのこと。」
「そう説明されると、納得できますね、確かに。」
「ところが、未然形2で文語の『む』に相当する『う』『よう』を助詞として立てるというのは、いくら文語文法で『活用するかな一字』が活用語尾とされてたからって無理無体という気がする。『う』と『よう』じゃ形が違うわけだし。あえて立てるなら『う』だけを助詞として立てて『う』『よう』と変化すると解釈するという方法だけど、未然形1のときと違って『う』『よう』以外の別の助詞が接続するわけじゃないから、すっきりしないんですよね。そこで、『書こう』『見よう』といった、まるごとの形で活用形と認定する。そうすると、『う』『よう』で終わる形には、『勧誘によってこれから実行されようとしていること』『未来において行なわれると予想されること』『推定』『仮定』といった、本来の『未然』という意味があるということになる。そこで未然形2は『不定形』あるいは『未定形』とするのが順当ではないかと。」
「なるほろ。ところで、『推定』や『仮定』っていうのは、どういう場合ですか?」
「『良かろう』とか、『安かろう悪かろう』みたいな、『くあり』形と横並びの形です。『彼は家にいよう』とか、『軽い食事ぐらい出よう』とか。天気予報も、『明日(みょうにち)は晴れよう』だったのが、『明日(あす)は晴れましょう』になり、『明日(あした)は晴れるでしょう』になったという経緯があるらしい。」
「へー。」
「で、『仮定』のほうは、『泣こうが喚こうが』とか『煮て食おうが焼いて食おうが』なんていう例があります。今は仮定を表す助詞『も』を使いますけどね。」
「『泣いても笑ってもあと一週間』とか『煮ても焼いても食えない』とかですか。」
「そうそう。考えてみると、今でもけっこう使ってるでしょう。」
「文語必ずしも死語ならず、ということですね。」
「ちなみに、『う』『よう』というのは、『む』『ん』『う』という音韻変化をたどった結果のようです」
「『む』と『ん』と『う』じゃ、ずいぶん違くありません?」
「『梅』や『馬』の場合、中国音『メイ』と『マ』が日本に入ったときに、『むめ』『むま』と表記されました。それが現在では『うめ』『うま』になってて、発音としては『んめ』『んま』とほとんど区別がつきません。」
「へー、いろいろあるんだ。」
「で、次の連用形。連用形1は問題なしですね。問題は『て』『で』『た』『だ』に続くという連用形2。」
「これはローマ字語幹方式だと、tやdの音まで含めて活用形とするべきですね。そうしないと、語幹の末尾音との対応がわからなくなっちゃうから。」
「これは、『書いた』『書いて』『読んだ』『読んで』全体、つまり『て』『で』『た』『だ』まで含めて活用形として立てなきゃいけない。『書いて』『読んで』は確かに連体形だけど、『書いた』『読んだ』は連体形だし。で、連用形1の『書き』『読み』と、連体形『書く』『読む』を加えて整理する。つまり、連用形と連体形、現在時制と過去または完了または完了時制の組合せで四通り。」
「T過去または完了または完了時制Uって、長すぎませんか。」
「じゃあ、『過去完了時制』でいいや。意味としては、おおむね
「次は、問題の終止形です。終止形というのは、三つあるんですよ。じつは。」
「そうなんですか?」
「文語の話ですけどね。まず、中世末期まで使われたという動詞の終止形。次に、今でもときどき目にする形容詞の終止形。それに、形容動詞の終止形。『秋深し隣は何をする人ぞ』の『深し』なんていうのは形容詞の終止形なんだけど、これなんかは今でも使えそうですよね。この直截な言切りの切れ味がいいですなぁー、とかいって宙を見上げてしまいたくなる。」
「古文の先生で、よくいらっしゃるそうですね、そういう人。授業中に『ええですなぁー』とかいって宙を見上げてしまうという話を、誰かに聞いたことがあります。」
「確かにおられますねぇ。あとは形容動詞の『なり』なんかも使いますね。『哀れなり』とか。『たり』は使わないけど。」
「『堂々たり』とか、今は言いませんもんね。」
「そう。で、現代口語では、『だ』『です』『である』や『ます』が終止の役割を引き受けているものだから、もはやこれらの終止形は存在しなくなっちゃったのではないかと思うんですよ。さっきも説明したとおり、連体形と同じ形をしている終止形というのは、連体形の後にいわゆる準体助詞の『の』と『だ』『です』『である』が接続したものの、『のだ』『のです』『のである』の部分が省略されたものだと解釈して、なんら問題が起きない。むしろ、『AはBです』というひとつの文型だけで、宣述文のパターンがすべて説明できるという点で、非常に合理的な解釈だといえると思います。」
「ふむふむ。」
「で。そもそも連体形と終止形はどっちか一本でいけるというのは昔から言われていたんです。たとえば、寺村秀夫先生は、以下のようにお書きになってます。」
次に、「連体形」も、本書では不必要と考える。文法史の教えるところによると、連体形は上代に文末に用いられて余情、詠嘆を表す例が見られ、それが院政時代から盛んになり、やがて中世末期にはほぼ完全に旧来の終止形を追い出し、結果的に連体形が終止形と同形になった、ということであるから、言語事実を説明すべき文法が、事実と遊離して数百年も放置されてきたということになる。現代語では、「形容動詞」を認めた場合、それだけが「連体形」をもつ語類ということになる。動詞や形容詞については、たてる必要は認められない。同じ形でも文中の使い方が違うのであれば、連用形などはいくつにも分けられねばならないことになろう。「で、私は『AはBです』という文型とか、さっきの連用形とのからみがあるもんだから、終止形ではなく連体形に一本化しちゃったほうが綺麗にまとまると思っているわけです。で、連体形には文と文とをつなげて複文にする機能もあってこっちもかなり重要だから、『活用形の命名は、主にその代表的な役割(使われ方)によって行う』という原則からいうと、『文結合形』とか『体言修飾形』とか呼んだほうがいいかも知れない。だけど、「連体形」と「連用形」については、歴史的に定着してて、構文上の特徴を直接に表しているので、そのままにしておこうと。」
寺村秀夫『日本語のシンタクスと文法』
「で、最後の難関、仮定形。」
「簡単なんじゃないですか? そんな気がするけど」
「『ば』以外に『ど』『ども』が接続するからね。だから、そこで切れると。ただ、『海行かば』なんていう歌があるでしょう。『行けば』じゃなくて『行かば』だと、『行かど』や『行かども』にはならない。つまり、文語の仮定形と現代口語の仮定形は別物だと考える必要が出てくる。まあ、実際に別物なんだけど」
「だはははは」。盛大にずっこけてしまった。「なにごとですか、それは」
「文語の助詞『ば』には、未然形にくっつく仮定の『ば』と、已然形にくっつく確定の『ば』があるんですよ。で、『ど』『ども』は已然形にくっつくんです。『海行かば』や『人を呪わば』の『ば』は、未然形にくっつく仮定の『ば』」
「じゃあ、現代口語の『ば』は?」
「というか、現代口語の仮定形は、元は文語の已然形起源なの。そもそも文語には『仮定形』っていう活用形はないしね。つまり学校文法の考え方でいうと、未然形1が否定の意味に特化しちゃったもんだから、仮定の『ば』が行きどころをなくしてしまって、確定の『ば』に吸収されてしまったという解釈なわけですね。それでT仮定U形なんだと。だけど、元から已然形にくっついてた確定の『ば』や逆接の『ど』『ども』としては、面白いはずもないわけです。」
「げ。」
「どうしました?」
「『海行かば』っていうのは、『海へ行くと、水漬く屍が』だと思ってましたけど−」
「あの『行かば』は、『行ったならば』と訳すのが正解ですね。『海へ行ったら土左衛門、山へ行ったら野ざらしに』。相当にやけくそな歌ですわな、あれは。」
「そういうのって、軍歌って呼べるんですかね。」
「腹ぁ括った奴ぁ強いんですよ。死中に活を求めるというやつです」
「なんだかなぁ」。わかんないぞ。
「まぁ、それはさておき、『否定形』と『仮定形』ということで活用形を立てはしたんですけど、このさい『未然形』と『已然形』でもいいのではないかという気はするんですね。『ない』と否定するにしても、『ば』と仮定するにしても、まだ確かになってはいないわけだから。」
「『未だ然らざる』ですか。」
「そういうことです。で、『ど』『ども』だと『前提が確かになったのに』という意味で、『已に然り』であると。条件と結果に関しても同じことが言える。」
「『否定形』と『前提形』って呼んだほうがいいような気がしますけどね。未然形につく仮定の『ば』は、現代口語には存在しないと思います。条件文の前提部分を、間違って『仮定』って呼んでいるような気がするんですよ。『仮定』は、連体過去完了に続く助詞『ら』でしょう。」
「分かった。『なり』『たり』の未然形に仮定の『ば』がついた形の『ならば』『たらば』にT仮定Uの意味が集約されて、それが『なら』や『たら』に型崩れしたわけだ。」
「あ、それなら納得」。ほくほく。
「で、ここまでの結果を整理すると、以下のようになります。」
現代口語の動詞の活用形は、以下の原形および八つの活用形の、計九つからなります。
「で、いよいよ大物です。動詞の活用表」
「わくわく。」
「動詞の活用表でわくわくしてくれるひとが、いましたか。」
「いて悪いということは、ないと思いますが。」
「ごもっとも。」
「で、まず活用の型の分類から。学校文法においては、活用は以下の五種類に分類されています。」
「上一段活用と下一段活用って、結局は指標音の違いだけで、活用そのものはまったく同じでしょう。分ける必然性は、あるのでしょーか」
「文語でもまったく区別する必要がないので、ないのでしょー、とお答えしましょう。まあ、これは指標音で分類するのが合理的でしょう。そこで規則動詞については、動詞の末尾音と活用の型の対応がはっきりと分かるようにするために、活用表は原則的にローマ字表記によって示すことにします。」
「ローマ字というのも、読みにくいでしょう。部分的にはかなで書いたほうが親切なんじゃないでしょうか」
「そうでもない。形態素なんかだと、原形にくっついて原形を作るタイプの形態素がある。そうすると、末尾音がわかんないと、次にどんな活用語尾や形態素がくっつくかわからんのだ。」
「なんでそこまで気がつくんですか?」
「すでに実用システムに応用されてるからね。そういうノウハウは自然に蓄積されてます。で、そういうノウハウの蓄積があるから、発表しちゃってもそうそう簡単に追いつけまいということで、こうやって発表されてるわけですよ。」
「なるほど。」
「で、不規則動詞については、『どういう場合にどういう形で用いられるか』を、そのまま例示します。したがって、原則的にかな文字表記をすると。」
「あれ? そうすると、受身や使役の形態素が接続した場合なんかはどうなっちゃうんですか?」
「『する』は『される』や『させる』、『来る』は『来られる』や『来させる』みたいに、そういう独自の変化形があるとみる。『見える』『聞こえる』なんていう自発形も同じように解釈する。」
「うーん、プロだ。」
現代口語の動詞の規則活用は、末尾音と活用の対応によって、以下のように四種類に分類することができます。
現代口語における動詞の活用表を、以下に示します。
| 指標音 | 未然 | 連用 | 連体 | 已然 | 命令 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 打消 | 不定 | 現在 | 過去完了 | 現在 | 過去完了 | |||
| i,e | - | you | - | te | ru | ta | re | ro |
| a,o,u | wa | ou | i | 'te | u | 'ta | e | e |
| k | a | *ite | *ita | |||||
| g | *ide | *ida | ||||||
| s | ite | ita | ||||||
| t,r | *'te | *'ta | ||||||
| n、b、m | *~de | *~da | ||||||
| *:末尾音の消失 ’:「っ」 ~:「ん」 | ||||||||
「ここで少々哲学的な議論をさせていただきたい。」
「てちゅがくてき、ですか。」
「言いにくかったら愛知学とでも言い換えてください。『知を愛する』のがフィロソフィですから」
「なるほど。」
「まずはじめに、『内包』と『外延』についてお話ししたいと思います。ご存じですか?」
「インクルージョンとエクスパンションでしたっけ。温度や濃度はインクルージョンで、長さや質量はエクスパンションとか」
「加法が成立するのがエクスパンションで、しないのがインクルージョンだとか?」
「そうです。三十度のお湯と五十度のお湯を混ぜても八十度のお湯にはならないけど、三リットルのお湯と五リットルのお湯を足すと八リットルのお湯になるという。したがって温度は内包量、容積は外延量という。遠山啓先生の水道方式の本に出てました」
「哲学における内包と外延というのは、『性質』と『実体』ということなんだよね。たとえば、『明けの明星』とか『宵の明星』とかいうのは、内包。金星というのは外延。あるいは、
{x|x は6の約数}(内包的定義)
{x = 1、2、3、6}(外延的定義)
ということですな。」
「なるほろ」
「ですがね、これって数学の、それも関数論なんかに関係してる表現だから、ちょいと問題ありなんだよね。たとえば、『1と2と3』っていうのが、『1以上3以下の整数』や『6の約数のうち、6自身より小さいもの』とT同じ意味Uかといえば、そうではないだろう、と。」
「じゃあ、T意味Uって何なんですか?」
「難しいことをサラッと訊きますね。それが簡単に説明できないから困っているんですが。ともあれ、用言には、外延的定義そのもので活用形が定義されてるものと、Tもともとの形UプラスTもともとの形から、それぞれの使われ方に応じた活用形を作り出す手続きUのセットによって活用形が定義されたものと、ふた通りあるわけです。で、前者が不規則活用動詞、後者が規則活用動詞であると。」
「なんか、わざわざ話を難しくしてるだけのような気が、しますけど。」
「例が簡単すぎて、有難みがわからないという気は確かにしますね。じゃあ、『百以下の素数』っていうのと、百以下の素数を一個一個並べるのと、どっちが簡単か、ということです。」
「パッと使いやすいのは、一個一個並べる方法ですね。」
「そう。数が少ないときは列挙型が最良であると。ただ、数が多くなると、サイズが問題になってくる。そこで手続き記述方式が有利になってくる。しかしながら即応性ということでは列挙型に軍配が上がる」
「データテーブル型とアルゴリズム型、といったところですか。」
「その通り。だから、しょっちゅう使うごく少数の不規則活用動詞というのはデータテーブル型で、残りの圧倒的大多数である規則動詞はアルゴリズム型で記述されているのではないかと」
「脳もコンピュータの一種というわけですね?」
「正確にいうと、コンピュータ・ネットワークと考えると分かりやすい、ということなんですがね。同じように、コンピュータを使って日本語処理を行う場合は、不規則活用動詞は表の形にして、主記憶上に置くわけです。普通はリソースという形にしておくんですが。」
「なるほど。いけてますね」
「いけてるでしょう。で、気になるのは『百以下の素数』と、『九十七以下の素数』が同じ意味か、ということなんですよ。」
「同じじゃないんじゃないですか?」
「じゃあさ、『呉れる』の命令形が『呉れ』だとかいうのはどう解釈するわけですか? 『呉れる』は規則活用動詞なんだけど、命令形だけが例外なのか、それとも『呉れる』は不規則活用動詞なのか。」
「えーん、わかんないですぅ。」
「わかんないでしょう。だから、それはわかんなくっていいということなわけ。ひとりひとりの文法は全然違っててもいいんだけど、その言語表現が一致してれば、それは『そのひとの文法』という点では正しいわけですよ。同時に、その人に対して同じ行動や思考や感情を呼びおこす表現は、同じ意味であると言えるわけ。」
「じゃあ、人の数だけ文法があるっていうことですか?」
「『あってもいい』のは確かでしょう。だけど、おのずと『いちばん単純明快な説明』というのがいちばんいいんだ、ということになるとは思いませんか? したがって、どっちの文法がTいけてるUかというのは、どっちの説明がTいけてるUかで判断しちゃっていいということになるわけです。」
「『オッカムの剃刀』ですね?」
「そう。ただし人それぞれ違う剃刀を使っても構わない。だから仕上がりも違ってくる。日本語処理をやってる人間としては深剃りが利いてくれなきゃ困るけど、中学・高校の先生や国文学者にとっては、さほど見苦しくない程度で一向にかまわない。」
「必ずしも厳密性にはこだわらない、っていうわけですね?」
「そういうこと。まとめていうと、以下のようになります。」
「x=1、2、3、6」という外延的定義には、本来「x は6の約数である」という「(内包的)意味」は附随していないが、我々はいま(正確には、私にとっては書いている「いま」、読者にとっては読んでいる「いま」だが)、後者の定義を「6の約数だ」という認識を持って、1、2、3、6といった数の並びを見ている。つまり、後者の「6の約数」というものが、「6」という数から、「約数を求める手続き」によって機械的に求められるということを我々は知った上で、この数の並びを見ているといえる。その「手続き」は各人によって違うかもしれない。しかしながら、それぞれの手法によって、それぞれが別々に行なっても、その「約数を求める手続き」が正しいかぎりにおいて、結果は同じであるはずである。
これと同じことが、動詞の規則活用についても言える。
『ある動詞が与えられたとき、その動詞から、文中のある場所においてその動詞がとるべき形が、手続きによって機械的に与えられるとする。そのとき、この動詞を「規則活用動詞」と呼ぶ』。以上が規則動詞の定義である。
また、『文中のある場所においてその動詞がとるべき形が、規則活用のように手続きによって与えられるのではなく、例の総体によって与えられている動詞を、「不規則活用動詞」と呼ぶ』ことにする。不規則活用動詞としては、カ行変格活用動詞「来る」、サ行変格活用動詞「する」、「いく(行く/往く/逝く)」、「いう(言う/云う/謂う)」などがある。
規則活用においては、その活用形の大本になる、「基本の形」が存在する。それを「原形」と呼ぶことにする。
冒頭に述べた「書く(kak)」「嗅ぐ(kag)」「貸す(kas)」「勝つ(kat)」「噛む(kam)」「刈る(kar)」について言えば、これら「ローマ字語幹」はすべて「原形」である。
おそらく人間というものは、規則動詞についていえば、動詞の原形だけを、活用形に関係なくいっしょくたにして、頭の中に入れているのだと思う。そして、使う段になって、動詞の原形の末尾音を確認し、その場その時に応じた活用形を得ているのだろうと考えられる。これは、日本語に限らず、諸外国語においても動詞の活用が動詞の末尾にある音によって決まる事実とも符合している。
また、この動詞末尾音と活用の対応に対する仮説(検証しようのないものを仮説というのはおこがましいが)を支持しそうな、もうひとつの事実がある。それはこの規則から外れる不規則活用動詞が、いずれも日常において頻繁に用いられるということである。すなわち、「しょっちゅう使う動詞」については、いちいち「動詞末尾音の判定→活用形生成規則の選択→活用形生成」というプロセスを起動することなく、いつでも使える形で手近な場所に格納してあるものを使う、ということを行なっているのではないかと考えられるのである。
もちろん、こうしたメカニズムは、ただ我々の想像の中にしか存在しない。したがって、世の中には「私はすべての動詞について、すべての活用を記憶しているのだ」という人もおられるかもしれない(あながち無茶な話ではない。すでに述べたが、フランス語・ドイツ語・ロシア語などにおける名詞の性や、日本語の接頭語「御(お/み/ご)」については、実際にそれに近いことが行われている)。あるいは、「私はすべての規則動詞について、その動詞にどんな手続きが適用されるのかを記憶しているのだ」と主張する人もいるかもしれない。だからこれらの動詞の語幹はあくまで「か」であり、自分はそれぞれの動詞が「カ行」「ガ行」「サ行」「タ行」「マ行」「ラ行」の活用をすることを覚えているのだと。もちろん、そう主張することはその人の勝手である。しかし、末尾音から機械的に決定できるものを、わざわざ別に記憶する必要はあるまいし、ましてやそれを他人に(つまりは生徒に)強要するのは無茶であると思う。したがって、「学校文法」における「語幹」概念などというものは、さっさと忘れてしまったほうがよい。
「ああ、馬鹿臭い、と思うけどコメントしておきましょう。可能動詞と呼べるのは、『できる』だけ。可能動詞に命令形がないというのは、単に運用論の問題。自発はそういう動詞があるというだけの話で、『自発形』とか『自発の形態素』とかがあるわけではない。『見える』『聞こえる』『分かる』が自発。『思い出される』は受身の形態素の自発用法。」
「ちゃんちゃん、と」
「まだ残ってたな。『元気な』『綺麗な』といった形容動詞。これが『元気だ』『綺麗です』といった形で述語(verb)を作るという話。これは『元気(な)(何か)だ』『綺麗(な)(何か)です』といった省略表現だということにして、終わり。したがって『形容動詞』という名前は不適切。私は『属性名詞』と呼んでました。」
「そうすると、『だ』『です』『である』なんていうのは、何て呼ぶんですか?」
「『準動詞』ついでながら、『実行する』『達成する』の『する』も『準動詞』。べつに『補助動詞』でもいいんだけどね。『持っている』の『いる』、『取っておく』の『おく』、『持ってゆく』の『ゆく』の三つが補助動詞。」
「その三つを特別扱いする理由は?」
「『持ってる』『取っとく』『持ってく』と省略可能。さらに『易い』『難い(がたい/にくい)』『辛い』なんかは補助形容詞。」
「そういうのがポンポン出てくるというのが凄いですねぇ。」
「日本語処理プログラムを書いてるうちに、自然に網羅できちゃったのよ。解析できない表現を当たるを幸い端から千切っては投げ千切っては投げという感じでした。で、それが頭に残っていると」
「それでも、すごいです。」
「で、以上のように、述語(verb)概念の整理と『強調転置仮説』によって、日本語の文法というのは、非常に簡単になるわけです。」
「T非常に簡単になるUとか言ってますけど、信じていいんでしょうね?」
「信じてください。日本語の文法というのは、構文レベルだと、これだけになります」
「まず、『名詞の分類は個別の辞書的性質による』というのは、丁寧の意味の冠詞『お』『み』『ご』のどれがつくかは、ヨーロッパの言語にある名詞の性と同じように、一個一個の名詞について覚えるしかない、ということ。そんなの漢語は『ご』でやまとことばは『お』じゃないの?とか言われそうですけど、『お説教』『お勉強』『お仏壇』『お葬式』『お香典』『お線香』『おビール』といった、法則から外れるものがやたらに出てきたりするわけです。」
「考えたこともなかったですね。」
「普通は考えないでしょう。で、これ以外にも『おでん』『おまわりさん』みたいに、『お』がついていないと意味不明というものがあったり、『三角形』『整数』『梅』『桜』『プログラム』『バグ』といった、『お』『み』『ご』のどれもつかないというのがあったりして、一筋縄ではいかないわけです。」
「『おこた』の『お』が取れると『こたつ』になっちゃいますしね。」
「そう。『かんむり』と『おかんむり』も別ですしね。こんなの外国の人にしてみれば『あなたそれムチャクチャ言うてないか』とかいって切れてしまいたくなると思います」
「うーん、大変だ。国際問題に発展しちゃいますね」
「しかし、それを言ったらドイツ語の名詞の性だってけっこう無茶苦茶なわけです。手は女性名詞だけど指は男性名詞とか、唇が女性名詞でキスが男性名詞だとか、『お前は人を馬鹿にしとるのか!』と言いたくなる。あとは水が中性で、雨が男性だとかいうのがわからない」
「ベルリンの平野には主に男性雨が降っちゃうわけだ†。リトマス試験紙が要りますね。」
「まったくです。『肌に優しい弱男性』とかな。」
「なるほど」。目の前にいたりして。
†「スペインの雨は主に平野に降る(“It rains mainly plane in Spain.”)」は、映画『マイ・フェア・レディ』に出てくる台詞のひとつ。
「で、もうひとつの『修飾関係は交差しない』というのは、別の言い方をすれば『修飾関係は入れ子になっている』ということです。『大きい犬が小さな子供を咬んだ』というのは『大きい犬』『小さな子供』とそれぞれ修飾関係が閉じているわけなんですが、これを『大きい小さな犬が子供を咬んだ』とやってしまっては、係り受けの関係が違ってしまうと。これを『非交差則』といいます。」
「ふむふむ」
「で、あとは、こうしてできた『文』を、接続詞や接続助詞で繋げてゆけばいい。『しかし』とか『にもかかわらず』とか『ので』とかね。」
「だけど、文法が分かったからといって、これだけで日本語が話せるわけではないと。」
「T意味のないU日本語は話せますけどね。コンピュータによる乱文生成というのですが。文法的には正しいんだけど、何言ってんのかわからない。」
「ぎゃはははは。」
「でなかったら、簡単な意味フレーム構造とくっつけて、ポルノグラフィの自動生成とか。うまくゆくと、猥褻性の概念が問い直されることになる。」
「うーむ」。なにがなんやら。
「さて、さらに細かい文法記述については、別の資料にまとめてあるわけですが、ここでは別のことについて語っておきたいと思います。」
「はいはい」
「まず、字面レベルと係り受けレベルの文法については、現在はほとんど問題なくコンピュータによる解析ができるというところまで、日本語処理技術は進んでおります。なにしろ精度の上では人間を超えてますから、むしろコンピュータのほうが普通の日本人よりちゃんとした日本語を話します。人間に勝てないのは、発音とか、そういうところだな。」
「ふーん。」
「で、今後問題になるであろう、というのが、データベース理論と名詞の意味についての関連ですね。これは『データベース・キーによる外延的意味の処理』、ちゅーんですが。」
「なんですか? それ」
「つまり、『明けの明星』というのは『金星』なのだから、『明けの明星は金星である』という文は『金星は金星である』と同じ意味になって、それは正しい、ということになる。しかしながら、『彼は明けの明星が金星であることを知っている』というのと、『彼は金星が金星であることを知っている』というのでは、意味が違いましょう、ということなんです。」
「うーむ、文語型未然形で言われてしまいましたね。」
「そこで、ある人は、『金星』という天体そのもの、つまり『金星』という言葉のT外延Uではなく、T内包U、つまり『明けの明星』という言葉にまつわるイメージ、『金星』という言葉にまつわるイメージ、そういったものを名詞の意味として考慮しなければいけないのではなかろうか、ということを言ったんです。」
「なるほど。」
「そこでTなるほどUとか言っていてはいけないわけですよ。それは果たして本当なんだろうか、と私などは思ってしまうんです。つまり、『金星』とか『明けの明星』というのは、釘のようなものではないかと。その釘に、『金星』とか『明けの明星』とか書いた札がぶら下がっているという。こっちの釘とこっちの釘は別の釘だというのは分かるんだけど、具体的にどう違うかというのは、説明不能なんです。たとえば『おこた』と『こたつ』というのは、同じものなんだけど、なにか違うと。だけど、具体的にどう違うかというと、説明できない。そして『おこた』のことを『こたつ』と呼んでもいいんだけど、やっぱり『おこた』には『おこた』の風情があって、それを『こたつ』と呼んでしまったら、なんとなくその風情にそぐわない気がする、みたいな感じ、あるじゃないですか。」
「それが?」
「データベース理論におけるデータベース・キーというのは、それに近い概念なんです。似たり寄ったりのデータが入っているんだけど、とにかく別のデータ。内部IDが違うんだけど、その内部IDというのは、制御上のIDだから、外部からは参照できない。詳しくはデータベース理論の専門書を見ていただければいいんですが」
「へー。」
「で、このデータベース理論以外にも、『〜だろう』とか『〜に違いない』とかいった表現や文どうしの接続関係は様相論理学というものによってあらかた表現できるんです。あるいは『正しい』『正しいとはいえない』『正しくない』とかいった真偽判断は直感主義の論理学、『大きい』とか『美しい』とか『若い』といった表現は関数的意味論やファジイ論理、事実関係の記述を意味フレーム、と組み合わせてゆくとですね、『なんとか日本語で会話できるコンピュータ』というのが、現在の技術でもわりと簡単に実現できちゃいそうに思うんです。で、それは新しいコミュニケーション・ツールになるのではないかと。」
「たとえば?」
「たとえばですね、人と人が知合うときってさ、いきなり手紙出したり、電話掛けたりとかしないでしょう? なんとなく仕事とか有人関係とか、そういう関係の中から、関係というのができあがってゆくわけです。その間を取りもつコンピュータというのは、できるのではないかと。『あっちにこういう人がいて、あなたと似たようなことに興味を持っている』とか教えてくれるわけ。で、『その人というのは、どんな人ですか』とかいった質問にも答えてくれる。『これこれこういったようなことに興味のあるひとは、連絡してください』とかいうメッセージも、そういうことに興味のあるひとに対して重点的に伝えてくれる。あるいは、『私はあのひとのことが好きなのだけど、あのひとに恋人とか、そういう決まった人はいるんだろうか』みたいなときに、それとなく相手のことを確かめて、『じつはこれこれこういう人がいるのだけれど』とかいった質問を代わりにしてくれるとか、そういうことがコンピュータにできるのではないだろうか、と思うわけですよ。」
「う。納屋さん意外にロマンチスト。」
「ははははは。意外でしたか。でまあ、これ以外にも面白いマンガや小説や映画を紹介してくれるシステムとか、システムのトラブルシューティングの問い合わせシステムとか、健康相談システムとか、心の悩み相談システムとか、性の悩み相談システムとか、専門家の養成が難しいこととか、なかなかちゃんと相談につきあってくれる人がいないこととか、人間が相手だと相談しにくいことをコンピュータにやらせるというのは、面白いと思うんですよ。あんまり役に立たなくても、まあ相手がコンピュータであれば腹も立たないと。」
「うん、そっちのほうが納屋さんらしい気がする。」
「それは単に商売なんだけどね。もちろん嫌いではないですが。で、こういうシステムを構築するのに、英語ではBAOBABという自然言語インタフェース・システムがあるのに、日本語にはそれに相当するものがない。それを開発してやろうかな、と思ったりなんかもしてるんです。で、そういったもののカラクリをですね、これからもいろいろと紹介してゆこうかな、と。」
「なるほど。期待してます。」
「じゃあ、そういうことで。長々とおつきあいくださってありがとうございます。」
「お疲れさまでした。」
(了)